“シリーズ21世紀の未来社会(全13章)”の要諦再読―その24―

“シリーズ21世紀の未来社会(全13章)”の
要諦再読 ―その24 ―

生命系の未来社会論具現化の道 <8>
―自然界の生命進化の奥深い秩序に連動し、展開―

「菜園家族」を土台に築く
近代超克の円熟した先進福祉大国 ②

―高次の新たな社会保障制度を探る―

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要諦再読 ―その24―
“「菜園家族」を土台に築く
近代超克の円熟した先進福祉大国 ②”
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ピンクと赤の花と小鳥

4 近代超克の円熟した先進福祉大国への可能性

 社会保障の財源としての税については、これまた社会のあり方やその性格が変われば、当然のことながら変化していく。
 税は「富の再分配」の装置でもある。支配的な「富の財源」が土地であれば地租が、そして資本主義工業社会であれば、第一次産業や企業での生産労働、そして企業の営業活動が「富の源泉」となり、所得税、法人税が税収の主要部分を占める。そして消費が社会の全面に現れてくると、消費税が注目されてくる。さらに「ストック」が顕在化してくると、環境ないしは自然という究極の「富の源泉」に目が向けられてくる。固定資産税や環境税である。

 このように考えてくると、「菜園家族」が社会の土台を成す自然循環型共生社会(じねん社会としてのFP複合社会)を指向するその前段にあたる「菜園家族」基調のCFP複合社会においては、税制のあり方は、この社会の客観的性格とめざすべき理念に基づいて、「干からびた細胞」同然の賃金労働者を基盤に成り立つ資本主義社会とは、根本的に違ってくるのは当然であろう。
 CFP複合社会の資本主義セクターC内の企業への合理的かつ適切な課税、企業の莫大な内部留保への課税強化、株式・金融取引への大幅な累進課税等々によって、財源は飛躍的に強化・改善されていくであろう。

 また、「菜園家族」創出のCFP複合社会の「揺籃期」および「本格形成期」においては、シリーズ“21世紀の未来社会”の第八章「世界的複合危機の時代を生きる」で詳述したように、CO排出量削減と「菜園家族」の創出とを連動させたCSSKメカニズムに基づき新たに創設される目的税は、財源の運用が次代の自然循環型共生社会(FP複合社会)の創出という目標と理念に明確に合致している点で、その移行期・形成期に適った必要不可欠できわめて有効な税制であると言えよう。

 一般に、「菜園家族」を基調とするCFP複合社会の「本格形成期」における恒久的な税制は、基本的には、「菜園家族」が社会の土台を構成し、その比重が一貫して増大していくのであるから、税・財政のあり方は、以前とは根本的に違ってきて当然であろう。
 社会のめざす理念に基づいて重点が何に置かれ、歳出の主要な項目が何であるのか、つまり理に適ったメリハリのある歳入、歳出になってくる。その上、税収源が何であるかが合理的かつ明確になってくる。つまり、今日の市場原理至上主義の資本主義社会とはまったく異次元の税財政制度が、自ずから確立されていくはずである。

 こうした税制・財政のもとで、シリーズ“21世紀の未来社会”の第八章で述べた「菜園家族インフラ」は格段に強化され、住民・市民の安定した精神性豊かな生活環境がまず整えられていく。
 具体的には、「菜園家族」志望者への経済的支援、農業技術の指導など人材育成、「菜園家族」向けの住居家屋・農作業場や工房、農業機械・設備、圃場・農道などの整備・拡充をはじめとする、いわば広い意味での「菜園家族インフラ」の総合的な推進である。これは、巨大ゼネコン主導の従来型の大型公共事業とは対照的に、地場の資源を生かした地域密着型の新たなる「菜園家族型公共的事業」とも呼ぶべきものなのである。

 その上で、家族に固有の福祉機能と地域コミュニティにしっかり裏打ちされた、近代を超克する新たな社会保障制度が確立されていくであろう。
 人生前半の社会保障としての出産・育児・教育、人生後期の社会保障としての介護・医療・年金等々の制度が飛躍的に充実していく。そこでは、伝統的福祉国家の標語ともなった「ゆりかごから墓場まで」の生涯一貫の社会保障制度が、家族に固有の福祉機能と地域コミュニティの潜在的力量と新たな公的社会保障制度とが三位一体となって、新たな形として確立されていくのである。

 こうした中で、障害や病を抱える人、生活保護世帯、単身者、子供のいない夫婦、ひとり親世帯、老老世帯、失業者、被災者等々、一人の社会的弱者も決して排除されることのない、先進的な福祉社会が円熟していくのである。
 こうして、18世紀イギリスに発祥した伝統的な協同組合運動のモットーであった「一人は万人のために、万人は一人のために」の精神が甦り、やがて社会全体に漲っていくにちがいない。

 これは決して架空の国の架空の夢物語などではない。これこそが、ほかのどの国でもない、まさにわが国の、「国民の生存権、国の社会保障的義務」を規定した日本国憲法第二五条の精神を、忠実にしかも誠実に具現化する道そのものなのである。

<日本国憲法>
第二五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 ② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなけれならない。

 この日本国憲法第二五条の精神を具現化する道は、結局のところ、生産手段から引き離され、きわめて人工的で虚構の世界に生きざるを得ない「干からびた細胞」、つまり近代の落とし子とも言うべき賃金労働者の家族を基盤にした今日の社会では、決して成し得ることはない。
 それは、社会の基盤に、大地に根ざした健康的でみずみずしい抗市場免疫の自律的な「菜園家族」をしっかり据え、それを土台に築かれる資本主義超克の高次の新たな社会において、はじめて実現可能になるのである。

 それはまさしく、今から二百数十年前の江戸中期の先駆的思想家であり、著名な町医者でもあった安藤昌益が慧眼にも見抜き予見したように、人は大地を耕し労働することで自然の治癒力を獲得し、無病息災で豊かに暮らせるとする「自然世(じねんのよ)」にも通ずる世界なのであり、これこそが歴史的伝統への回帰と止揚(レボリューション)による、「菜園家族」を土台に築く近代超克の円熟した先進福祉大国への道なのである。

 この道こそ、今日の世界を混迷の淵に陥れている自己責任と格差社会、分断と対立、覇権主義・侵略的大国主義に対峙して、日本国憲法の理念に根ざした、真にいのちの尊厳を遵守する小国主義の存立を可能にし、その基盤の強化をもたらす必要不可欠の社会的・経済的条件である。

 「菜園家族」が育ち、家族にもともとあったきめ細やかな福祉機能が復活し、全開したと仮定しよう。わが国幾千万の家族や個人に秘められた実に多様で細やかなこの潜在的力量の総和は、計り知れないほど大きなものになるはずである。
 国民のこのかけがえのない潜在的能力を蔑ろにし、広大な農山漁村を犠牲に重化学工業偏重の高度経済成長を強引に押し進め、その付けを無慈悲・冷酷でかつ不完全な社会保障制度で代替させながら、実に長期にわたって国民を偽り続けてきたのである。

 近代の落とし子とも言うべき大地から引き離された賃金労働者、つまり「干からびた細胞」を前提に、近代資本主義以来今日に至るまで、モノとカネの提供のみに頼った旧来の社会保障制度が、「菜園家族」の力量と、地域の力と、そして新たな公的社会保障制度との三位一体の力によって、どれほど血の通った人間本位の真に豊かな高次の社会保障制度に変わっていくのか。
 こうした実相を、CFP複合社会のそれぞれの発展段階に対応した社会と経済の構造的変化の動向を詳細に見極めながら、今後、多くの人々とともに綿密に検証していく必要がある。

5 円熟した先進福祉大国をめざす新たな国民運動形成の素地

 シリーズ“21世紀の未来社会”の第九章の項目「GDPの内実を問う ―経済成長至上主義への疑問」でも述べたように、1年間に生産された財やサービスの付加価値の総額を国内総生産(GDP)とする内実には、さまざまな疑問や問題点がある。
 サービス部門の付加価値の総額は一貫して増大の傾向にあり、とりわけアメリカをはじめ日本など先進資本主義国では、GDPに占めるこの割合はますます増大していく。一般的にサービス部門の付加価値総額の増大の根源的原因には、歴史的には紛れもなく、直接生産者と生産手段(生きるに必要な最小限度の農地、生産用具、家屋など)の分離にはじまる、家族機能の著しい衰退がある。

 さらに注目すべきことは、GDPには家族や個人の市場外的な自給のための生活資料の生産や、たとえば家庭内における家事・育児・介護などの市場外的なサービス労働、非営利的なボランティア活動等々、それに非商品の私的な文化・芸術活動によって新たに生み出される価値は反映されていない。
 しかも、GDPには無駄な巨大公共事業、巨大金融部門の巨額の取引、それどころか人間に危害をおよぼすもの、人間を殺傷する兵器産業の付加価値までもが含まれている。
 今やGDPは、その内実と経済指標そのものとしての有効性すら問われているのである。

 こうしたことを念頭におく時、「菜園家族」社会構想の積極的な意味がどこにあるかが明確になってくる。そして、資本主義社会の矛盾の歴史的解決が、具体的なかたちとなってはっきりと射程内に入ってくるのである。

 「菜園家族」を基調とするCFP複合社会の展開過程と将来への動向を見通すためには、まず「菜園家族」社会構想の理念、それに基づくこの社会の構造上の根本的な変化をしっかりおさえた上で、仮想の「社会モデル(模型)」を設定することが必要である。
 そして、個人や「菜園家族」、「なりわいとも」(「菜園家族」社会構想に基づく新たな形態の地域協同組織体)、ならびに法人(CFP複合社会における資本主義セクターCの企業や公共的セクターPの非営利団体等々)の事業活動によって新たに生み出される付加価値の総額の試算。
 この試算に基づく税収源、そして歳入・歳出のすべての項目にわたる厳密な検討とその額、そして何よりも新たな社会保障制度をしっかり支えるための財源の可能性など、財政学上、人口動態学上等々のあらゆる因子をこの「社会モデル(模型)」にインプットすることによって、諸因子を動かし相互に連動させながら、因果関係、相互関係を明らかにしつつ、総合的で綿密かつ大胆なシミュレーションをすることが可能になってくる。

 この仮想の「社会モデル(模型)」をどのように設定するか、つまり社会の現実(構造および質)をどのように抽象化し、模型化するか、そしていかなる因子を選定するかは、今後具体的に検討し、研究を重ねていく必要があるが、こうした作業を通して、「菜園家族」基調のCFP複合社会の展開過程と将来への動向を、具体的かつ明確に展望することが可能になってくるであろう。

 いずれにせよ、こうした時間のかかる膨大な作業を進める中で、新たに解決すべき諸々の理論的課題も浮上してくるにちがいない。こうした作業を広範な国民との対話を通じて、一つひとつ着実に時間をかけて解決していくことによって、「菜園家族」社会構想の内実は、いよいよ豊かなものになっていくのではないか。同時に一般にも十分に納得されるものになり、具体的なイメージも膨らみ、国民共通の認識になってくるはずだ。

 こうしたことは、広範な国民の英知と多岐にわたる高度な専門性が要求される困難にして膨大な作業になろう。それでも広く国民的力量を結集することによって、紆余曲折を経ながらも、やがて研究分野においても、シリーズ“21世紀の未来社会”の第五章1節「21世紀未来社会論の核心に『地域生態学』的理念と方法をしっかり据える」で触れた、今日の時代の要請に応え得る革新的地域研究としての「地域生態学」が、行き詰まった地域社会の実態の特質と構造を深く掘り下げつつ、特にマクロ経済学的手法との照合・検証を通じて自らを止揚し、21世紀未来社会構想の新たな統一理論の構築へと道を開いていくにちがいない。

 18世紀イギリス産業革命以来、二百数十年の長きにわたる資本主義の歴史を克服し、生産手段と現代賃金労働者との歴史的とも言うべき「再結合」を果たすことによって、新たに創出される21世紀の人間の社会的生存形態「菜園家族」。
 この前代未聞とも言うべき「菜園家族」を土台に築く、近代超克の円熟した自然循環型共生の先進福祉大国への道は、さまざまな課題を抱え、多難ではあるが、気候危機とパンデミック、そしてウクライナ戦争という今日の日本と世界の深刻かつ恐るべき事態を直視するならば、これこそが必然であり、唯一残された道ではないかと次第に自覚されてくるのである。

 こうした中で次第に、国内的には格差と分断、国際的には覇権主義・大国主義を排し、日本国憲法の理念に根ざした、真にいのちの尊厳を遵守する「小国主義」が自ずから甦ってくるのではないか。やがて、自然循環型共生社会(じねん社会としてのFP複合社会)をめざす、21世紀の新たな国民運動の素地が形成されていくにちがいない。
 そうなり得るのかどうか、それはひとえに、時代が要請するさらなる本格的な理論の深化と、既成の不条理に抗して闘い、新たな道を求めて止まない民衆の意志と力量如何にかかっている。

「家族」と「地域」の再生は、果たして不可能なのか
 「菜園家族」社会構想について、「それは理想かもしれないが、実現不可能な夢物語にすぎない」と思う人もいるかもしれない。あるいは、「個人を縛る家族など、再生の必要はない」と考える人もいるだろう。果たしてそうなのであろうか。

 最近、高齢者の行方不明や孤独死、急増する中高年の「ひきこもり」、育児放棄・児童虐待による幼い子の死など、家族や地域の崩壊を象徴する痛ましい問題が頻繁に報道されている。
 こうした中、東日本大震災を機にあらためて人間の絆を取り戻そうと、家族や地域コミュニティについての議論が、ようやく取りあげられるようになってきた。
 しかし、家族や地域と言えば、なぜかかつての形態をそのままイメージするためか、結局、その再生はもはや不可能ではないのか、といったきわめて消極的な話に落ち着いていく。

 こうした家族再生不可能論にありがちな一つの特徴は、高度経済成長とともに人生を歩んだ戦後団塊世代とそれに続く年齢層に多く見られる傾向である。家族の狭隘性や後進性、農村の人間関係の煩わしさを避けて、高度経済成長の雰囲気に何となく押され、都会生活に憧れ、物質的な豊かさを享受してきたこうした世代にとって、一旦抜け出したはずのかつての息苦しい家父長的・封建的な性格を孕んだ家族や地域といったものに対しては、自由を縛る時代遅れの代物にすぎないという思いが先に立ち、どうしても懐疑的にならざるをえないのかもしれない。

 もう一つの特徴は、こうした世代の息子や娘、孫に当たる世代に見られる傾向である。特に都市へ出た親から生まれた20代、30代の若者の多くは、農村生活を経験したことがなく、大地から隔てられた人工的で「快適」な生活は、所与のものとして生まれた時から存在している。
 つまり、今日当たり前のように享受しているこのライフスタイルの原形は、1950年代半ばからはじまった高度経済成長期のたかだか20年足らずの間に、あらゆるものが実に目まぐるしく変わる中で即製されたものであり、若者たちは、そもそもその変貌ぶりを実際に居合わせて体験したことのない世代なのである。このような若者たちにとって、今のライフスタイルが永遠不変のように映るのも不思議ではない。

 世代論で決めつけるのは不適切のそしりを免れないが、こうした個人のさまざまな歴史意識が前提にあって、いずれにせよどの世代も、今ある現代賃金労働者(サラリーマン)家族の形態はこれからも永遠に変わらないし、今さら変えることなどできないという、漠然とした諦念にも似た思いが先に立ち、結局、家族や地域のあり方を変えることは不可能であるという感覚に囚われているのかもしれない。

 もちろんこれら世代の人々の中にも、家族や地域の意義を再認識し、新しい考えからその再生に真剣に取り組んでいる例が、近年とみに見られるようになってきたのもまた事実である。大都市から農山漁村へと移住する「田園回帰」と呼ばれる潮流も、かつてのような定年退職者に限らず、若者や子育て世代にも広がりを見せている。
 全体から見れば、まだまだ一部に限られたものではあるが、人間の意識は、客観的状況の変化に伴って大きく変わっていくものである。特に若者世代の圧倒的多数は、熾烈な市場競争の渦中にあって、むごいまでの仕打ちを受け、生活と将来への不安と絶望に喘ぎながらも、ようやくこれまでの価値とは違った新たな人生をもとめ、一歩前へ踏み出そうとしている。
 とりわけ新型コロナウイルス、そして気候危機の事態は、人間世界のこうした意識の変化を皮肉にも劇的に促そうとしている。混沌と混迷の中にありながらも、ここに私たちは、新たな21世紀世界への一縷の可能性を見出すことができるのではないだろうか。

「家族」と「地域」の再生をゆるやかな変化の中で捉える ―諦念から希望へ
 こうした現実や家族に対する意識の現状をふまえて、家族再生の問題を具体的に考えてみよう。
 まず、おさえておきたいことは、「菜園家族」社会構想は、これまでにも述べてきたように、かつての家族や地域の姿にそのまま戻ると考えているわけでは決してないということである。
 「菜園家族」社会構想では、家族を構成する人間そのものが、男女ともに、「現代賃金労働者(サラリーマン)」と「農民」といういわば近代と前近代の人格的融合によって高次の段階へと止揚され、21世紀にふさわしい新たなる人間の社会的生存形態に生まれ変わることを前提にしているからである。こうした新たな人格によって構成される家族と地域のあり方も、おのずとかつての限界を克服し、新しい段階へと展開していくにちがいない。
 このことをまず確認した上で、もう少しこの問題を考えてみたい。

 今、21世紀20年代初めのこの時点で、若い世代の男女が結婚し、週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリングのもとに新たな生活をはじめたとしよう。そして、まもなく初めての子どもが生まれたと仮定しよう。生まれたばかりのこの乳児は、10年後には小学3、4年生になっているはずだ。さらに10年後には、この小学生は、20歳の立派な成人になっている。後から生まれた弟や妹たちも、それぞれ大きく成長していることであろう。

 このことを同様に敷衍して、祖父母、両親、子どもたちの様々な組み合わせや年齢層で構成される「菜園家族」のいくつかのパターンを具体的に想定し、イメージしてみよう。それぞれのパターンが10年先、20年先、さらには30年先の2050年代には、どのようになっていくのか。
 そして、このことをさらに地域空間に広げて想像するならば、こうした「菜園家族」の様々なパターンを基軸にして、地域社会が具体的にどのように展開し、新たな協同性を培いながら変わっていくのかが、もっとはっきりとイメージできるはずである。

 このように、10年先、20年先、30年先・・・と順に時間軸を延ばして、地域空間内の自然や人々の暮らしを総合的に変化の中で捉えようとするならば、週休(2+α)日制のワークシェアリングによる三世代「菜園家族」社会構想は、それほど遠い未来の漠然としたものには思えないのではないか。
 だとすれば、「理想かもしれないが、実現不可能な夢物語にすぎない」という消極的な考えには、必ずしも陥らないで済むのではないだろうか。むしろ時間軸を延ばし、かつ地域空間を広げて将来を具体的に考える想像力こそが、これまで欠如していたとも言える。
 家族や地域を崩壊に導き、社会を今日の事態にまで追い込んだ原形ができあがったのは、先にも触れたように、1950年代中頃からの高度経済成長期のたかだか20年足らずの間の出来事であったのだ。それを修復できないと言うのであれば、それこそ諦念に陥るほかないであろう。

 市場原理至上主義「拡大経済」によって、ますます深刻の度を増していく今日の社会的矛盾がもっとも集中的に現れているのは、特に幼い子どもたちの世代や、熾烈な競争社会の中、就職難と不安定雇用と失業、そして長時間労働と過労に喘ぎ、自分の家族さえ持てないでいる20代、30代、40代の若者世代である。
 こうした世代の現実を直視すれば、10年先、20年先を見据えて、家族と地域をどのような姿に再生していくのかという問題が、もはや避けては通ることのできない切実な課題として突きつけられてくるのである。
 中高年世代にとって、それは言ってみれば、まさに自分の子どもや孫たちが、将来においても末永く幸せに暮らしていける道を考えることであり、自分自身の本当のやすらぎ、心の幸せにもつながる問題であるはずだ。

 こうした幼い子どもたちと若者たちを念頭に、この二大世代を基軸に、「菜園家族」創出の具体的目標を設定し取り組むことによって、その他の世代をも含めて、私たちが抱えている差し迫った問題や将来への不安も、やがて根本から解決され、全体として今日の社会の閉塞状況は解消へと向かっていくにちがいない。
 これら二大世代は、あらゆる意味で多くの問題を抱えていると同時に、将来への展望を切り開く上で重要な鍵にもなっている。この二大世代にまずは知恵と力を集中し、今から10年先、20年先、30年先を見据えて、来たるべき新しい社会の礎となる、自給自足度の高い抗市場免疫の自律的な「菜園家族」に一つ一つ育てあげていく。
 そうするならば、誰もが生きがいを感じ幸せに暮らせる、世界に誇る日本独自の素朴で精神性豊かな自然循環型共生社会(じねん社会としてのFP複合社会)、つまり「菜園家族」を土台に築く円熟した先進福祉大国の構築も、決して不可能なことではないであろう。

6 「お任せ民主主義」を排し、何よりも自らの主体性の確立を
  ―そこにこそ生きる喜びがある―

 今わが国の経済は、先にも触れたように、成長、収益性の面で長期にわたり危機的状況が続いている。この長期停滞は、設備投資と農山漁村から都市への労働移転を基軸に形成されてきた過剰な生産能力を、生活の浪費構造と輸出と公共事業で解消していくという戦後を主導してきた蓄積構造そのものが、もはや限界に達したことを示している。私たちは、このことを厳しく受け止めなければならない。

 根源的な変革を避け、この構造的過剰に根本から手を打つ政策を見出せず手をこまねいているうちに、1990年代初頭からの「失われた20年」は、もうとうに過ぎてしまった。この間、「景気回復」とか「高度成長をもう一度」の幻想を捨てきれないまま、旧態依然たる政策がズルズルと続けられてきた。その結果、むしろ事態はますます悪化していくばかりである。
 私たちは、この「失われた20年」から本当に何を学ぶべきなのか。「菜園家族」社会構想など時代錯誤だと言ってうかうかしているうちに、今度は「失われた30年」が瞬く間に過ぎていく。長引けば長引くほど、根本的な再建はそれだけ遠退き、ますます困難になる。

 2012年12月にはじまる第二次安倍政権は、国民生活を質に入れての一か八かの危険極まりない「賭け」に出た。「アベノミクス」、そして黒田日銀の「異次元金融緩和」とやらでサプライズに湧き、円安・株高・債券高の流れが一気に強まったと、世の中はにわかに浮かれていたが、それも束の間、2020年新型コロナウイルス・パンデミックによって東京オリンピックは延期され、この虚構の「景気回復」ムードのメッキも一気に剥がれ落ちた。
 ひと時のお祭り騒ぎも終わり、まもなく2022年2月にはウクライナ戦争が勃発。一握りの富裕層はいざ知らず、大多数の国民にとって生活はますます厳しくなっている。

 際限なく続出してくる問題群の一つ一つの対処に振り回されながら、その都度、絆創膏を貼り、セーフティーネットを張るといった類いのその場凌ぎのいわば対症療法は、もはや限界に達していることを知るべきである。
 今、本当に必要なのは、問題が起こってからの事後処理ではなく、問題が発生する大本(おおもと)の社会のあり方そのものを変えることである。衰弱しきった今日の社会の体質を根本から変えていく原因療法に、本格的に取り組むことである。
 それは少なくとも10年先、20年先、30年先、50年先をしっかりと見据え、長期展望に立って、戦後社会の構造的矛盾を人間の社会的生存形態と家族や地域のあり方の根底から着実に変革しつつ、再建の礎を根気よく一つ一つ積み上げていく過程なのである。

 経済成長至上主義の野望によって、そして御用学者や評論家の甘言によって、問題の所在をいつの間にか曖昧にされ、後退を余儀なくされてきたが、ここでもう一度しっかり心に留めておかなければならないことがある。
 シリーズ“21世紀の未来社会”の第八章で述べたように、IPCC特別報告書『1.5℃の地球温暖化』(2018年)によると、私たち人類は、30年後の2050年までに、COなど温室効果ガス排出量を実質ゼロにしなければならない重い課題を背負わされている。

 「CO排出量ゼロのクリーン・エネルギー」とにわかに持ち上げられた原発も、3・11によってその途方もない危険性を今や誰もが認識するに至った。
 自己の存在すら根底から否定されかねないこの大問題に誠実に向き合い、その解決を本当に望むのであれば、原発をただちに無くし、世界の多くの人々がめざそうとしているCO削減のこの国際的な目標に合わせて、10年、20年、そして30年先を見据え、CO削減とエネルギーや資源の浪費抑制にとって決定的な鍵となる、「菜園家族」を基調とするCFP複合社会を構想し、その実現をめざすことを、「夢物語」などと言ってはいられないのではないか。
 むしろそれは、脱原発や地球環境問題で高まりつつある国際的な議論と運動の重要な一翼を担い、その先進的な役割を果たしていくことにもなるにちがいない。何よりも子どもや孫たちの未来のために、あるべき姿を描き、その目標に向かって少しでも早く第一歩を踏み出し、できる限りの努力を重ねることこそが大切なのである。

 「菜園家族」を基調とするCFP複合社会の構築と、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)の再生。
 このCFP複合社会は、自然循環型共生の理念を志向する民衆主体の本当の意味での民主的な地方自治体の誕生と、それらを基盤に成立する真に民主的な政府のもとではじめて、本格的に生成、熟成されていく。この新しい政府のもとでこそ、社会・経済の客観的変化とその時点での現実を十分に組み込みながら、自然循環型共生の理念にふさわしい財政・金融・貿易など、抜本的かつ画期的なマクロ経済政策を打ち出すことができるのである。

 この時はじめて、家族や地域、そして社会、教育・文化など、包括的かつ具体的な政策を全面的に展開し、遂行していくことが可能になろう。その結果、子育て・医療・介護・年金などについても、先に述べたように、生活者本位の新たな税財政のもとで、公的機能と、次第に甦ってくる家族および地域コミュニティの力量とを有機的に結合した、新しい時代にふさわしい人間の温もりある高次の社会保障制度が確立されていく。

 シリーズ“21世紀の未来社会”の第八章で提起したCSSKメカニズムは、このようなCFP複合社会の「本格形成期」に先立つ「揺籃期」とも言うべき初動の段階からでも、都道府県レベルで順次、不完全ながらもその駆動を開始していくことになるであろう。それは、全国規模でのCFP複合社会の「本格形成期」への移行を促す前提となる基盤を、身近な地域から着実に築いていくことでもある。
 そして、いよいよ自然循環型共生の理念、すなわち「菜園家族」を土台に築く円熟した先進福祉大国を志向する、草の根の民衆主体の新しい政府が樹立された暁には、このCSSKメカニズムも全国レベルの本格的なシステムと機能に成長し、新しい政府による「包括的かつ具体的な政策の全面的展開」と相俟って、いっそう重要な役割を担い、格段の効果を発揮していくにちがいない。

身近な郷土の「点検・調査・立案」から21世紀の未来が見えてくる
 私たちは、これまであまりにも多くの時間を費やしながらも、今ようやく「菜園家族」を基調とするCFP複合社会のまさに「揺籃期」の入口に立とうとしている。手はじめに何からスタートすべきなのであろうか。
 それは、陳腐かつまどろっこしく思われるかもしれないが、シリーズ“21世紀の未来社会”の第五章で述べた革新的地域研究としての「地域生態学」の理念と方法を基軸に、何よりも自らが暮らす郷土に、一つの特定の“森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)”モデルを選定し、それをそれぞれが自らの身近な問題として、具体的に考えることからはじめることなのではないだろうか。
 そして、その地域がめざすべき未来像を明確にするために、子どもや若者やお年寄りを含め、世代を超えた住民・市民自らが、郷土の「点検・調査・立案」という認識と実践の連続らせん円環運動に加わり、粘り強く取り組むことであろう。

 その際大切なのは、この連続らせん円環運動の初動の作業仮説として、世の「常識」に流されず、できる限り地域の現実に即して、郷土の未来像を不完全であっても、まずは大胆に素描してみることである。
 こうした仮説設定とその後の検証を繰り返すことによってはじめて、自らの「地域」の本当の姿が見えてくる。そこから、自らの「地域」とわが国のめざすべき未来像も、より具体的に浮かび上がってくるはずだ。

 戦後まもなく、名著『中世的世界の形成』(1946年)で知られる歴史家石母田正が、上から与えられる歴史に対峙して、「民衆のいるところ、生活のあるところにはどこにでも豊かな歴史がある」、そうした歴史は「民衆自身が書かねばならない」(「村の歴史・工場の歴史」『歴史評論』3-1、1948年)と呼びかけたのを機に、自らの村や工場の歴史の掘りおこしと学び合いを通して、戦後民主主義を担う主体形成につなげていった「国民のための歴史学」運動。
 そこに込められた精神こそが、現代の衰退しきった私たちの民衆運動に取り戻さなければならない最も大切なものではないか。
 今日の自らの現実に立ち向かい、郷土の未来像を描く「点検・調査・立案」の認識と実践の終わりのない連続らせん円環運動は、かつての「国民のための歴史学」運動を彷彿とさせるに足る、いわば「民衆による民衆のための地域未来学」運動とでも呼ぶべき、21世紀の新たなムーブメントの提起とも言える。

 明日への確かな目標に向かって努力するこうした草の根の地道な活動を抜きにしては、一握りの為政者と巨大金融資本、グローバル多国籍企業による巨大化の道に抗して、地域の自立をはかり、未来への道を切り拓く手立てはないと言ってもいい。迂遠に思われるかもしれないが、これこそが現実的に考えられる本当の意味での近道ではないだろうか。
 それはまさしく目先の「選挙」だけに矮小化され、澱(おり)のようにこびりついた欺瞞の「お任せ民主主義」の社会的悪習を排し、めざすべき21世紀の未来社会を展望しつつ、何よりもまず、自らの足元から、自らの手で自らの主体性を確立していくことなのだ。こうした自律的で民衆の生活に深く根ざした、包括的で豊かな国民的運動が切に待たれるのである。
 このような地道な創造への実践にこそ、真の生きる喜びがある。

 格差と不条理、分断と対立の連鎖を断ち切り、大地の香りと自然の色彩に満ち溢れた、人間性豊かな新たな世界の創造。「菜園家族」を土台に築く近代超克の円熟した先進福祉大国への道は、決して虚しい夢ではない。
 今は不可能だと思われがちな、生命系の未来社会論具現化の道としての「菜園家族」社会構想も、多くの人々の切なる願いと、さまざまな地域の人々の長年にわたる試行錯誤の積み重ねの上に、その実現への可能性が次第に膨らんでいくにちがいない。
 まさにこれこそが、日本国憲法第二五条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の具現化の道なのである。

2023年8月4日
里山研究庵Nomad
小貫雅男・伊藤恵子

「要諦再読 その24」の引用・参考文献
安藤昌益「稿本 自然真営道」『安藤昌益全集』(第一巻~第七巻)、農山漁村文化協会、1932~1983年
石母田正「村の歴史・工場の歴史」『歴史評論』第31⁃1号、1948年
高田雅士「1950年代前半における『知識人と民衆』―国民的歴史学運動指導者奥田修三の『自己変革』経験から―」『歴史学研究』970号、績文堂出版、2018年

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