コラム「菜園家族 折々の語らい」(11)

コラム
菜園家族 折々の語らい(11)

 グローバル市場経済の新たな重圧と東アジア民衆、究極の課題
 ―朔北のモンゴル遊牧民の苦闘が問いかけるもの―

ゴビ・アルタイ山脈、東ボグド山中の遊牧の村ツェルゲルの幕営地(1992年秋)
ゴビ・プロジェクトの5名の日本の調査チームは、ツェンゲルさんとその弟フレルさんの家族とともに、越冬することになった。

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コラム「菜園家族 折々の語らい」(11)
(PDF:536KB、A4用紙7枚分)

6.郷土の再生に立ち向かうツェルゲルの人々
  ―「地域」の自立と草の根の民主主義をもとめて―

 モンゴルの首都ウランバートルから南西へ750キロ、大ゴビ砂漠地帯に連なるゴビ・アルタイ山脈、東ボグド山中の遊牧の村ツェルゲル(バヤンホンゴル県ボグド郡の東端に位置する)は、旧社会主義体制下の遊牧の集団化経営ネグデルの時代、共同所有家畜のうち、ヤギの飼養を専門に担当させられていた。
 本コラム(10)で触れた拙速な産業構造の変化の中で、体制末期には、1家族あたりに割り当てられる家畜頭数が年々増加し、遊牧民たちは苛酷な暮らしを強いられるようになった。当時、ボグド郡のネグデルに所属する6つの村の中で、ツェルゲル村はノルマ達成率のもっとも低い村になっていた。

 1984年、26歳でボグド郡ネグデルのツェルゲル村担当責任者として赴任したツェンゲルさんは、村の若者を都市に送り、医師や製靴職人など人材養成に力を注いだり、分校設置実現のために行政に熱心に働きかけたりと、自らの手で自らの生活の場としての地域再生に取り組んでいった。ネグデルの下級役職にありながら、むしろ遊牧民の立場に立って心を配りながら考え、行動する実に稀に見る青年であった。ツェルゲル村の遊牧民たちは、若いながらも何事にもひたむきに働く誠実なツェンゲルさんの人柄に信頼を寄せていった。

ツェンゲルさん、妻バドローシさんと子供たち

 ツェンゲルさんは、ボグド郡の砂漠地帯で生まれ、幼い時に両親を失い、養母に育てられた。孤児としての苦しみを知り尽くしたツェンゲルさんは、意志の強い聡明な少年であったと言われている。貧しさのため、ゴビ地方の牧畜専門学校だけを卒業し、しばらく郡内で獣医を務めていたが、結婚後、この村に赴任したのである。

 1986年夏、大干魃に見舞われたツェルゲル村の遊牧民たちは、冬営地を求めて隣村の山中に長距離移動を余儀なくされる。さらに翌年冬、追い打ちをかけるように、雪害(ゾド)に見舞われ、ヘリコプターによる救援・飼料投下を受けるほどの大打撃を受けた。
 ただでさえ苛酷なネグデル体制下の暮らしに、このような自然災害の連続が拍車をかけ、折からの民主化への胎動の気運の中で、ツェルゲル村の遊牧民たちは、次第に自主独立の気概を高めていく。
 そしてそれは、やがて1991年1月2日の村の住民総会において、郡ネグデル長の睨みにも怯えず、ツェルゲル村単独での郡ネグデルからの離脱決行へとつながっていった。体制の動揺期にあっても、ネグデル離脱の例は全国的にも少なく、2番目のケースであった。

旧社会主義体制末期、酷寒の中、遊牧の集団化経営ネグデルからの離脱を表明する若きリーダー
ツェンゲルさん(ツェルゲル村、1991年1月)
 ~新しい「共同」への模索がはじまった。~

 一方、首都ウランバートルでは、1990年3月、酷寒の中、スフバートル広場に蜂起した群衆は、モンゴル人民革命党の最高幹部である政治局員全員の罷免を求め、数次にわたるハンガーストライキの末、解任へと追い込んだ。
 5月には国会に当たる人民大ホラルが開催され、内閣が総辞職し、大統領が選出され、一党独裁に終止符を打ち複数政党制が承認された。6月には、人民大ホラルの代議員の初の自由選挙が慌ただしくおこなわれたが、旧来のモンゴル人民革命党の候補が84パーセントの議席を獲得し、与党の地位を維持した。

 これ以降、急激な市場経済化による混乱の中で、基本的には旧党派と民主派との間で、「自由選挙」なるものを通じた政権争奪が長きにわたって繰り返されることになるのであるが、深層からの真の社会変革の地道な活動を伴わない、上辺(うわべ)だけのいわば目先の「選挙」のみに矮小化された運動がどんな運命を辿るかは、今日に至るほぼ35年におよぶモンゴルの惨憺たる歴史の経緯が如実に物語っている。モンゴル民主化運動の限界とその性格が、そこに露わに示されている。
 このことは、モンゴルに特殊な問題と言うよりも、その本質において、昨今とみに混迷を深める、いわゆる「民主主義国」と言われる今日の先進資本主義諸国でも見られる普遍的な問題として、受け止めなければならないのではないか。

 それはさておき、1991年、モンゴルは、IMF(国際通貨基金)、ADB(アジア開発銀行)、世界銀行に加盟し、西側との密接な関係のもと、市場経済化を押し進め、銀行部門の改革、外国資本の導入、国家予算の均衡を名目とした教育・福祉予算のカットを強引に押し進め、これに便乗して新興商人が暗躍しはじめた。中でも都市住民と遊牧民に直接降りかかってきたものは、価格の自由化、物価の値上げ、共有財産の分割、国際貿易の自由化などであった。

 1991年7月に開始されたバウチャー方式による国有・公有財産所有分割は、地方の遊牧民の生産と生活に決定的な変化をもたらすことになった。ネグデルの共有家畜は、このバウチャー方式によって個々の遊牧民に分割、分与されると、後は野となれ山となれの無政府状態のまま放置されることになった。

 こうした混乱の中、ウランバートルで民主化運動が高まるかなり以前から、首都から遠く離れたゴビの辺境にあって、地域再生の独自の模索をはじめていた山岳・砂漠の村ツェルゲルでは、若き遊牧民リーダー・ツェンゲルさんを中心に、村の有志たちが集い、1992年厳冬のゲルの中、これからどうやっていくのか、ランプをつけての深夜に及ぶ語り合いと議論を重ねていった。

 こうした議論の中で、これまでの社会主義集団化経営ネグデルに代わって、自己の家畜を所有した自立した遊牧民家族小経営を基礎に、各人の創意性と自発性を尊重した新しいタイプの自主的な遊牧民協同組合ホルショーを結成しよう、ということになった。そしてこのホルショーを中核に、ツェルゲル村の風土に根ざした総合的な地域づくりをめざして、趣旨、具体的な活動内容、組織、財政など、細部にわたって規約草案を練りあげていった。

 そしていよいよ1992年12月4日、ツェンゲルさんたち数名の遊牧民の発起人たちの呼びかけにより、ホルショー結成について話し合うための村民総会が開かれた。広大なツェルゲル村の山岳・砂漠の各地から、酷寒の中、馬やラクダに乗って馳せ参じた遊牧民の老若男女たちは、会場となったゲルの中で、長時間にわたって熱心に議論した。

 モンゴルが全国的に混乱状態にある中、特にツェルゲル村のような僻地には、小麦粉から日用雑貨に至るまで品不足に陥っていた。カシミヤ原料の販売のルートを新興商人によって押さえられ、安値で買いたたかれている現状を打開するためには、中古のトラックを購入する必要があるとか、長年の悲願である小学校分校をネグデル所有の倉庫を改築して是非スタートさせたいなどと、次々に意見が出された。
 また、羊毛・ラクダ毛原料でフェルトづくりや糸を紡ぐなど、手工芸グループをホルショー内にと、女性からの提案があり、その一つひとつを具体的に実行していく方法まで話し合いがおこなわれた。
 運転手の免許を持っている中年の遊牧民男性からは、ホルショーが中古トラックを購入するのであれば、当面は無給料で働いてもいい、といった決意の表明が出されるなど、ゲル総会は熱気と高揚感に包まれ、厳冬の夜遅くまでロウソクを灯しながら議論は続けられていった。

 このホルショーの最大の特色は、主要な生産手段である家畜の共同所有に基づく共同管理・共同運営をおこなった郡単位の大規模集団化経営・旧ネグデルとは根本的に異なり、組合員である各遊牧民家族は、個人所有家畜に基づく独立した家族小経営であることを基本とし、協同組合ホルショーには、個人所有家畜の5パーセント分を共同家畜ファンドに拠出することによって、ホルショーの共同活動の原資とすることにあった。
 この共同ファンドを活用しながら、具体的には、遊牧生産基盤の拡充(井戸・越冬用家畜小屋・備蓄飼料・家畜医療・自然災害対策)、伝統的手工芸の再興、畜産原料・天然資源の有効活用、自主流通の開拓(運輸手段の確保・畜産物の共同出荷・生活必需品の共同購入)、生活環境(衣食住)の改善、ホルショー共同家畜の委託飼養を通じた弱小家族・若年家族の支援・育成、分校を拠点にした遊牧地域独自の教育・文化・芸術・医療の発展など、多様でユニークな活動に取り組む目標が立てられた。

仔ヒツジと遊ぶ子供たち

 こうした活動目標の中で、もっとも熱心に話し合われた大切な議題は、ツェルゲル村の遊牧民たちの長年の悲願でもあった小学校分校を、翌1993年秋の新学期に間に合わせてスタートさせることであった。
 校舎については、総会に同席したボグド郡長ドラムドルジさんから、村の遊牧民たちの熱のこもった議論におされて、「村中心地にある、郡ネグデル所有の倉庫を分校校舎として使用してもよい」と表明があった。体制側の地方行政の長の出席を内心訝(いぶか)しく思っていた遊牧民たちからは、この突然の勇気ある発言にほっとしたのか、拍手が沸いた。

 次の難題は、郡中心地から70キロも離れた山岳・砂漠のこの地まで、果たして先生たちが赴任してくれるであろうか、という問題であった。そこで、赴任する先生の家族には、所定の公的給料に加えて、ホルショーの共同家畜ファンド(各家族が所有する家畜の5パーセント分を拠出)から50頭の家畜を提供する案が出された。遊牧民と同じように先生家族も放牧し、乳や肉など暮らしを支える一助にしてもらおうという、遊牧地域ならではの妙案である。
 教室の机や椅子、黒板などは、70キロ先にある郡中心地の本校から運び込むことになった。生徒たちの給食用の食肉や暖房用の薪は、ホルショーが提供することになった。

 結成総会は次第に盛り上がり、参加者からは、「上からの押しつけではなく、まさに地域の遊牧民の中から自発的におこったこのような自主的組織の結成は、モンゴル全土でも初めてではないか」との声があがり、自分たちの手によるこの新しいタイプの遊牧民協同組合を“ウーリン・トヤー(曙光)”ホルショーと名付けることに決定した。
 そこには、ツェルゲル村の遊牧民たちの自負と孤高の精神と同時に、この僻地の村にとどまらず、ボグド郡の他の5ヵ村、さらにはモンゴルの遊牧地域全土に新しい時代の夜明けを告げる一筋の希望の光となれば・・・という思いが込めれていたように思われるのである。

 ホルショーの初代組合長には、ツェンゲルさんが選ばれた。遊牧民たちにとっては、正真正銘の自由投票によって、自分たち自身で自分たちのリーダーを選ぶことができたことが、嬉しかったようだ。

 このように、新しいタイプの遊牧民協同組合として誕生したホルショーは、かつての集団化経営ネグデルでは空文と化した、「共有経済の社会的関心と組合員の個人的関心を正しく結合しながら生産と分配を計画的に運営する」という理念を、まったく別な発想、考えに基づいて実現しようとする試みであった。
 つまり、個々の家族や個々人に秘められた自発性・創意性に依拠してはじめて、それは実現可能なのだ、ということをこの結成総会の熱気が示していたし、何よりもその熱気の渦中にいた遊牧民たち自身が、その確信を胸に会場をあとにした。暗闇にすっかり包まれた酷寒の山岳・砂漠の夜更け、明日への希望と前途への不安こもごもに、三々五々、家路を辿ったのである。

7.遊牧民主体の地域づくりの実践 ―その輝きと忍び寄る暗雲―

 1992年12月4日の結成総会の翌日から、早速、遊牧民協同組合ホルショーの活動は開始された。結成総会で話し合われた実に多岐にわたる仕事に、組合員それぞれが分担しながら、次々と取り組んでいくのである。そこには、いつになく楽しい雰囲気や明るさや何よりも希望が漲(みなぎ)っていた。

 翌1993年1月、ボグド郡中心地で旧農牧業協同組合ネグデル(正確にはその後継組織ホビツァート・カンパニー)がついに解散したという情報が舞い込んできた。
 1月25日、ツェルゲル村から西へ90キロ離れたアルタイ村でもホルショー結成総会が開かれると、たちまちボグド郡全域の村々へ波及し、郡内に合わせて5つのホルショーが生まれることになった。そして、これらすべてのホルショーが集まって、ホルショー郡連合が結成されるにまで至ったのである。ツェルゲル村の遊牧民たちは、満面に笑みを浮かべて喜び合った。自分たちがやってきたことが間違いではなかった、というほっとした気持ちでもあったのだろう。

旧正月を祝うツェンゲル家と弟フレル家の人々

 旧正月が明けてすぐの2月27日から3月9日にかけて、厳寒の吹雪の中、ホルショー郡連合の6名の代表者たち一行は、結成総会で約束した通り、早速、750キロ先の首都ウランバートルに赴き、活動を開始した。
 市場経済への移行後、旧ネグデルや国の公的ネットワークによる畜産物・日用品の流通システムが崩壊し、郡や県の中心地や首都ウランバートルでは、新興商人勢力がにわかに暗躍するようになっていた。遊牧民にはあまりにも不利な状況となり、物不足・物価高騰で混乱を極めていた。
 こうした中で、とりあえず目前に控えた春のカシミヤ出荷を少しでも有利な価格で販売する目的と、将来に備えて流通システムの改善の可能性を探る目的で、首都に出向くことになったのである。

 しかし、首都ウランバートルに行ったホルショーの代表者たちは、地方とのあまりにも大きな格差と、不透明な流通のあり方に少なからず精神的ショックを受けて帰ることになった。郡連合代表の長老が、「われわれが今取り組みはじめたホルショーと郡連合の意味が、あらためてよく分かった」と語っているように、遊牧民たちはようやく自分たちがホルショーを結成した今、何をなすべきかを前途に横たわる困難の大きさとともに、具体的につかみはじめたようであった。

 同年3月17日、ツェルゲル村では“ウーリン・トヤー”ホルショーの第3回総会が開かれ、ホルショー代表団のウランバートル行きについての報告、および小学校分校開校の準備について協議した。また、ウランバートルから購入してきた日用必需品の直売をおこない、郡や県中心地のブローカーの中間搾取を排除して、首都から直接購入する方法を初めて実践した。

ツェルゲル村の中心地

 同年6月頃から、ツェルゲル村では分校開校の準備が本格的にはじまった。ホルショーのメンバーは、郡中心地の本校から分校に赴任予定の先生たちとともに、分校校舎の修繕に取りかかった。
 本校から赴任する4名の先生たちは、ツェルゲル村から70キロ先の郡中心地から、山々に囲まれた村の中心地に家族ともども移住し、ゲルで暮らすことになった。加えて、ベテラン女性教師のご主人が医師であったことから、村の中心地には自宅を兼ねたゲル式の診療所ができたに等しく、また、村内を馬で巡回してくれることになった。
 こうしてようやく村の中心地は、中心地としての体裁を整えはじめるのである。

 同年7月下旬になると、京都在住の羊毛工芸家を迎え、ホルショー主催の手工芸サークルがスタートする。村内各地から十数名の遊牧民女性が集まり、ゲルでの合宿講習会がはじまった。羊毛・ラクダ毛の手紡ぎ、編み物、フェルトづくり、染色などに取り組んだ。
 こうして、“ウーリン・トヤー”ホルショーは、規約で掲げる目標に向かってその第一歩を踏み出したのである。

 同年8月25日、ツェルゲル村の遊牧民たちの長年の悲願であった分校開校の記念ナーダム祭りが、村中心地で開催された。村内はもとより、近隣の7つの郡、そして県の中心地から600~700名の人々が参加し、盛大に催された。人口希薄なゴビ地帯で突如これだけの人々が参集したことからも、“ウーリン・トヤー”ホルショー結成の反響が如何に大きかったかが窺われる。

念願の分校開校式

 同年9月、いよいよ新学期が始まり、1年生から3年生まで合わせて45名の生徒が初登校した。両親、兄弟姉妹、祖父母たちが見守る中、校庭でささやかな開校式兼始業式がとりおこなわれ、分校長の老先生と生徒たちの手で「最初の鐘(アンフニー・ホンホ)」が打ち鳴らされた。

 こうした新しいタイプの遊牧民協同組合ホルショーが郡内全域に結成されたことになるのであるが、むしろ前途には多くの困難や解決しなければならない難しい課題が、今まで以上に山積していることを予感させられる兆しも同時にあらわれてきた。
 モンゴル新政府の指導部が、西側諸国から派遣された経済顧問団の指示を無批判に受け入れ、次々と拙速に打ち出していった「ショック療法」と呼ばれる急激な市場経済化政策。庶民までもが、これまでの長年の強権体制への反動からであろうか、西側の「自由」に安易に憧れ、「市場経済(ザハ・ゼール)」、「市場経済(ザハ・ゼール)」と口癖のように繰り返す浮ついた雰囲気に、底知れぬ不安を覚えるのであった。

 生産手段の私的所有についての理解の問題であるが、家畜という生産手段の個人的所有は、ある一面では遊牧民の自主性と創意性を引き出し支える経済的基礎でもある。このことなしには、おそらく今日の状況下では、直接生産者である遊牧民の自主性と創意性を活性化させることは望めないであろう。
 しかし同時に、この生産手段の個人的所有は、無条件にそのまま放置すれば階層分化が次第に進行し、やがて極端な貧富の差を生み出す原因ともなる。そしてそれは、やがて地域社会に亀裂を生み出し、共同の精神を損ない、共同体の存立を危うくする。

 ツェルゲル村においては、1987年の実質上の私有家畜の所有頭数制限撤廃後、階層分化が急速に進行し、その5年後の1993年夏の時点では、少なからぬ家族が縮小再生産の悪循環に陥り、そこから抜け出すことができず極貧に喘ぐようになっていた。村の約60戸のうち、6家族もあらわれてきたのである。
 ツェルゲル村の新しい遊牧民協同組合“ウーリン・トヤー”ホルショーは、そうした事態にも備えて、既に述べたように、私有家畜5パーセント拠出によるホルショーの共同家畜ファンド制度を組合規約に設定し、実践したのである。

 市場経済に移行した今日のモンゴルでは、「個」を過度に重視し、「共同」を軽視したことによって、「個」の発展を保障する社会的条件を掘り崩し、逆に「個」の発展に障害をつくり出すに至っている。
 ホルショーを発展させるキーポイントは、結局、「個」と「共同」の問題に帰結する。この2つは二律背反するかのように見えるが、実はどちらもお互いに欠くことができないものとして、両者が一定の均衡のもとに成立するものである。「共同」なくしては「個」の発展は望めないし、「個」のない「共同」は、「共同」そのものが枯渇する運命にあるのである。

 「個」と「共同」のこの問題は、「社会主義」から市場経済へ急速に移行したモンゴルをはじめ、旧ソ連・東欧だけの問題にとどまらず、日本をはじめ先進資本主義国、さらには「市場経済を通じた社会主義への道」を標榜する中国・ベトナム、そして北朝鮮などにも共通の人類普遍の未解決の重い課題として、私たちに残されているのである。
 この問題については、21世紀の未来社会を展望する上でも極めて大切な要となるテーマであるので、あらためて深めていきたいと思う。

コラム「菜園家族 折々の語らい」(11)の引用・参考文献(一部映像作品を含む)
小貫雅男・伊藤恵子『新生「菜園家族」日本 ―東アジア民衆連帯の要―』本の泉社、2019年
小貫雅男『モンゴル現代史』山川出版社、1993年
映像作品『四季・遊牧 ―ツェルゲルの人々―』小貫雅男・伊藤恵子共同制作(三部作全六巻・7時間40分)、大日、1998年
  そのダイジェスト版(前編・後編 各1時間40分)をYou Tubeに公開中。
  前編 https://youtu.be/8ckpvZv3blc ,後編 https://youtu.be/8WR0TCZd7O0
伊藤恵子「遊牧民家族と地域社会 ―砂漠・山岳の村ツェルゲルの場合―」滋賀県立大学人間文化学部研究報告『人間文化』第3号、1997年

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このコラム「菜園家族 折々の語らい」は、これからも随時、掲載していく予定です。
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2026年1月23日
里山研究庵Nomad
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