長編連載「いのち輝く共生の大地―私たちがめざす未来社会―」第6章(その2)

長編連載
いのち輝く共生の大地
―私たちがめざす未来社会―

第三部 生命系の未来社会論 具現化の道
―究極の高次自然社会への過程―

第6章
 「菜園家族」社会構想の基礎
 
―革新的「地域生態学」の理念と方法に基づく―
 (その2)

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長編連載「いのち輝く共生の大地」
第6章(その2)
(PDF:478KB、A4用紙9枚分)

2011.9.8大君ヶ畑集落を流れる犬上川(北流)trim
鈴鹿山中を発し、大君ヶ畑(おじがはた)集落を流れる犬上川北流(滋賀県犬上郡多賀町)。やがて彦根市街を貫流し、琵琶湖に注ぐ。

5.森と海を結ぶ流域地域圏(エリア) ―「菜園家族」を育むゆりかご―

 本連載の第1章2節で述べたように、日本列島の各地に息づいていた森と海(湖)を結ぶ流域地域圏(エリア)は、戦後、1950年代半ば以降の高度経済成長の過程で急速に衰退していった。重化学工業重視路線のもと、莫大な貿易黒字と引き換えに、国内の農林漁業は絶えず犠牲にされ、人々は農山漁村の暮らしをあきらめ、都市へと移り住んでいった。

 上流の山あいの集落では、若者が山を下り、過疎・高齢化が急速に進行し、空き農家が目立つようになった。「限界集落」と化し、ついには廃村にまで追い込まれる集落が随所に現れている。平野部の農村でも、やはり農業だけでは暮らしていけなくなり、今や農家の圧倒的多数が兼業農家となった。しかも、近郊都市部の衰退によって、兼業すべき勤め先すら危うくなり、後継者の大都市への流出に悩まされている。
 これまで流域地域圏(エリア)の中核となってきた歴史ある地方中小都市では、巨大量販店が郊外に現れ、従来の商店街や町並みの空洞化現象が深刻化している。

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長編連載「いのち輝く共生の大地―私たちがめざす未来社会―」第6章(その1)

長編連載
いのち輝く共生の大地
―私たちがめざす未来社会―

第三部 生命系の未来社会論 具現化の道
―究極の高次自然社会への過程―

第6章
 「菜園家族」社会構想の基礎
 
―革新的「地域生態学」の理念と方法に基づく―
 (その1)

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長編連載「いのち輝く共生の大地」
第6章(その1)
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青い海に透ける水底の石

1.21世紀の「菜園家族」社会構想 ―「地域生態学」的理念とその方法を基軸に―

 本連載の第1章3節「今こそ近代の思考の枠組み(パラダイム)を転換する」、および第2章「人間と『家族』、その奇跡の歴史の根源に迫る」でも触れたように、二百数十万年の長きにわたる人類史の中で、自然に根ざした「家族」は、ヒトが人間になるために根源的で基底的な役割を果たしてきたし、個々の人間の発達一般にとっても、おそらく遠い未来にわたってそうあり続けるであろう。
 まさにこのテーゼが、21世紀“生命系の未来社会論”として、私たちがここ20年来提起してきた週休(2+α)日制(但し1≦α≦4)のワークシェアリングによる「菜園家族」社会構想にとって、揺るがすことのできない大前提になっている。

山村の田舎家2軒

 ところで、戦後まもなくはじまった農地改革によって地主・小作制が撤廃され、たけのこの如く次々と自作農(農民的家族小経営)が誕生した。彼らは創造性豊かな農業の再生に奮闘し、実に多種多様な品目の農作物の栽培や家畜飼育に取り組み、篤農家と呼ばれる先進的農家が続々とあらわれてきた。農業生産は飛躍的に増大し、明るい農村の建設へと向かった。敗戦直後の想像に絶する食糧難にあって、貧窮とひもじさに苦しみながらも、不思議なことに人々は明日への希望に燃えていた。

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長編連載「いのち輝く共生の大地―私たちがめざす未来社会―」第5章

長編連載
いのち輝く共生の大地
―私たちがめざす未来社会―

第二部 生命系の未来社会論の前提
―その方法論の革新のために―

第5章
 21世紀、私たちがめざす未来社会
―その理念と方法論の革新―

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長編連載「いのち輝く共生の大地」
第5章
(PDF:617KB、A4用紙13枚分)

飛び立つハト(銅版画調・カラー)

1.19世紀未来社会論の到達点と限界

近代に先立って現れた民衆の自然権的共産主義の先駆的思想
 イギリス産業革命が進行し、近代資本主義が形成される中で生まれてきた、ロバート・オウエンなどのいわゆる空想的社会主義といわれる一連の思想や、今日では高校の教科書にも記述されている社会主義とか共産主義という用語の根底に流れる思想は、はたして近代に限られた近代特有の産物であったのであろうか。決してそうではない。

 それは、近代以前の古き時代から人類史の中に脈々として伝えられ、人々の心を動かし、時には民衆による支配層への激しい抵抗や闘いをよびおこし支えてきた、根源的な思潮ともいえる。
 それは、私利私欲に走るあさましさ、人間が人間を支配する不公正さ、抑圧される人々の貧困や悲惨さへの憤りに発する思想でもあり、人間の協同と調和と自由に彩られた生活を理想とする人類の根源的な悲願でもあり、したがって、おのずから時代を超えて繰り返し生まれてくる思潮にほかならない。

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長編連載「いのち輝く共生の大地―私たちがめざす未来社会―」第4章

長編連載
いのち輝く共生の大地
―私たちがめざす未来社会―

第二部 生命系の未来社会論の前提
―その方法論の革新のために―

第4章
 末期重症の資本主義と機能不全に陥った近代経済学
 
―21世紀未来社会論のさらなる深化のために―

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長編連載「いのち輝く共生の大地」
第4章
(PDF:612KB、A4用紙10枚分)

岩にしがみつくタカ(銅版画調・カラー)

近代を超えて新たな地平へ
 わが国は2011年3月11日、巨大地震と巨大津波、そして福島第一原発事故という未曾有の複合的苛酷災害に直面した。そして、地球温暖化による気候変動、「数十年に一度の」自然災害が日本列島のどこかで毎年のように頻発する異常気象、2020年新型コロナウイルス・パンデミック、さらには2022年2月24日にはじまるウクライナ戦争。
 これら一連の世界的複合危機は、巨大都市集中、エネルギー・資源浪費型の私たちの社会経済の脆さと限界を露呈させた。

 この近代文明終焉の分水嶺とも言うべき歴史の一大転換期に立たされた今なお、相も変わらず大方の評者、なかんずく主流派を自認する経済学者やエコノミストは、広く市井の人々を巻き込む形で、従来型の金融・財政上の経済指標や経済運営のあれこれの些細な操作手法に固執、埋没し、目先の利得に一喜一憂する実に狭隘な議論に終始している。

 まさにこうした昨今の憂うべき時流にあって、マクロ経済学について門外漢である者としては軽率との誹りは免れようもないが、敢えて本論に入る前に、金子貞吉著『現代不況の実像とマネー経済』(新日本出版社、2013年)などの論考を参照しつつ、自分なりに近代経済学の辿った歴史の展開過程とその性格を見極め、整理しておくことにした。
 このことによって同時に、アベノミクスなるものによって煽られた経済政策の淵源とその本質も自ずから明らかになってくるはずである。

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長編連載「いのち輝く共生の大地―私たちがめざす未来社会―」第3章

長編連載
いのち輝く共生の大地
―私たちがめざす未来社会―

第一部 生命系の未来社会論、その生成と到達
―自然界と人間社会を貫く生成・進化の普遍的原理を基軸に―

第3章
 資本の自己増殖運動と飽くなき人間欲望の結末こそ、野獣世界への退化

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長編連載「いのち輝く共生の大地」
第3章
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人間の頭(銅版画調・カラー)

1.人間に特有な「道具」の発達が人類史を大きく塗り替えた

 受精卵の子宮壁への着床から成人に至る人間の個体発生の過程は、人類が出現して以来、これまでも繰り返されてきたし、これからも永遠に繰り返されていくであろう。
 だとすれば、「常態化された早産」によってあらわれる脳の未成熟な「たよりない能なし」の新生児も、これから先も永遠に繰り返されて、母胎の外にあらわれてくることになるであろう。

 子宮内の変化の少ない温和な環境から、突然外界にあらわれた新生児の新たな環境は、母の胎内とはまったくちがったものである。それは、「家族」という原初的ないわば社会的環境と、それをとりまく大地という自然的環境、この2つの要素から成り立っている。
 人類が出現した時点から数えても、今日まで少なくとも二百数十万年もの間、人間の赤ちゃんは、子宮内の温和な環境から、突然、この2つから成る環境、すなわち原初的な社会環境である「家族」と、大地という自然的環境に産み落とされ続けてきたことになる。

 昔と変わらず今日においても、胎外に生まれ出たこの未完の素質を最初に受け入れ、「養護」する場は、ほかでもなく「家族」であり、それをとりまく大地である自然なのである。そして、どのようにでも変えうる可能性を秘めたその未熟な脳髄は、繰り返しこの「社会」と「自然」という2つの環境から豊かな刺激を受けつつ変革され、人間特有の発達を遂げながら、他の動物とは際立った特徴をもつ人間につくりあげられてきた。

 人間形成のこの2つの環境は、少なくとも二百数十万年という長い人類史の大部分の間、主として自然界の内的法則にのみ従って、基本的には大きな変容を蒙ることもなく、緩慢な流れの中にあって、時代は過ぎていった。
 ただし、原初的な社会的環境である「家族」の方が、まず先行して、ゆっくりではあるが徐々に変化の兆しを見せはじめる。

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長編連載「いのち輝く共生の大地―私たちがめざす未来社会―」第2章

長編連載
いのち輝く共生の大地
―私たちがめざす未来社会―

第一部 生命系の未来社会論、その生成と到達
―自然界と人間社会を貫く生成・進化の普遍的原理を基軸に―

第2章
 人間と「家族」、その奇跡の歴史の根源に迫る

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長編連載「いのち輝く共生の大地」
第2章
(PDF:458KB、A4用紙9枚分)

キツネ

 本連載においては、ここまでに触れてきた「労」「農」人格一体融合の人間の新たな社会的生存形態「菜園家族」を基軸に、21世紀社会のあり方を構想していくことになるのであるが、「家族」というものについては、歴史的にも実にさまざまな評価がなされてきた経緯がある。特に近代に入るとその評価はきわめて否定的なものになり、今日に至ってもその傾向は根強く存在している。

 一方、まさに“生命系の未来社会論”具現化の道である「菜園家族」社会構想においては、むしろ「家族」がもつ積極的な側面を再評価し、これを地域や社会の基底を成す不可欠の基礎的共同体として、あるべき未来社会の多重・重層的な地域構造を下から形づくり支える大切な役割を担うものと位置づけている。

 「菜園家族」を基調とする21世紀の社会構想の具体的な内容に入る前に、まずこの章では、今なぜ「家族」に着目し、それを重視しなければならないのかを明らかにするためにも、「家族」とは本来、人類にとっていかなるものであるのかをあらためて見つめ直すことからはじめたい。

「家族」の評価をめぐる歴史的事情
 岸田前首相が打ち出した「異次元の少子化対策」が、この間、国会等でもにわかに取り沙汰されてきた。しかし、根源的視点が抜け落ちたまま議論が進行していると言わざるを得ない。

 これまで「家族」については、歴史的に実にさまざまな評価がなされてきた経緯がある。特に今日においては、ジェンダー的視点から「家族」に対する否定的評価が強まる一方、旧統一教会や自民党に典型的な、非科学的で古色蒼然たる家父長的家族観も根強くあり、「家族」をめぐる議論は混迷を極めている。

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長編連載「いのち輝く共生の大地―私たちがめざす未来社会―」第1章(その3)

長編連載
いのち輝く共生の大地
―私たちがめざす未来社会―

第一部 生命系の未来社会論、その生成と到達
―自然界と人間社会を貫く生成・進化の普遍的原理を基軸に―

第1章
 生命系の未来社会論、その具現化の道「菜園家族」社会構想の問題意識
 (その3)

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長編連載「いのち輝く共生の大地」
第1章(その3)
(PDF:601KB、A4用紙12枚分)

フクロウ(銅版画調・カラー)

3.今こそ近代の思考の枠組み(パラダイム)を転換する ―“生命系の未来社会論”の措定―

未踏の思考領域に活路を探る
 「菜園家族」とは、大地から引き離され、自立の基盤を失った現代の「賃金労働者」が、自立の基盤としての「菜園」との再結合を果たすことによって創出される新たな家族形態のことである。
 それはつまり、大地から遊離し根なし草同然となった不安定な現代賃金労働者(サラリーマン)が、大地に根ざして生きる自給自足度の高い前近代における「農民的人格」との融合を果たすことによって、21世紀の新たな客観的諸条件のもとで「賃金労働者」としての自己を止揚(アウフヘーベン)し、抗市場免疫に優れた、より高次の人間の社会的生存形態に到達することを意味している。

 本連載で提起する“生命系の未来社会論”の具現化としての「菜園家族」社会構想を、懐古趣味的アナクロニズムの妄想として一蹴するのは簡単ではあるが、それでは人間の存在自身を否定する、非正規労働という身分保障もない、差別的低賃金の不安定雇用が蔓延する今日の事態を乗り越え、非人間的で非人道的な現実をどうするかの解答にはならない。
 これに答えるためには、結局、近代の所産である「賃金労働者」という人間の社会的生存形態が、はたして永遠不変のものなのか、という根源的な問いに行き着かざるを得ないであろう。

 19世紀以来今日まで、未来社会論の基調は、生産手段の社会的規模での共同所有と、これに基づく共同管理・運営を優先・先行させることにあった。そして、新しく生まれるこの社会主義社会の初動の段階において主導的役割を果たすべき構成員は、近代に引き続き「賃金労働者」であることが暗黙の前提となっていた。
 しかし、今やこの理論自体に根本からメスを入れ、新たなパラダイムのもとに、19世紀以来拘泥してきた未来社会論を止揚(アウフヘーベン)しなければならない時に来ている。

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長編連載「いのち輝く共生の大地―私たちがめざす未来社会―」第1章(その2)

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いのち輝く共生の大地
―私たちがめざす未来社会―

第一部 生命系の未来社会論、その生成と到達
―自然界と人間社会を貫く生成・進化の普遍的原理を基軸に―

第1章
 生命系の未来社会論、その具現化の道「菜園家族」社会構想の問題意識
 (その2)

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第1章(その2)
(PDF:487KB、A4用紙8枚分)

新緑の大君ヶ畑集落(犬上川北流の川岸)
犬上川北流のほとりに佇む限界集落・大君ヶ畑(滋賀県・鈴鹿山中)

2.生命本位史観に立脚し「家族」と「地域」の再生を探る

いのちの再生産とモノの再生産の「二つの輪」が重なる家族が消えた
 かつては、いのちの再生産の輪と、モノの再生産の輪が、二つとも「家族」という場において重なっていた。それゆえ家族は、大地をめぐる自然との物質代謝・物質循環のリズムに合わせて、時間の流れに身をゆだね、ゆったりと暮らしていた。
 ところが、世界史的には18世紀のイギリス産業革命以降、社会の分業化が急速にすすむ中で、不可分一体のものとして存在していた「農業」と「工業」は分離し、まずは「工業」が、次いで「農業」も家族の外へと追い出されていく。その結果、「家族」という場において、いのちの再生産とモノの再生産の「二つの輪」が重なる部分はますます小さくなってしまった。

 戦後日本の高度経済成長は、こうした傾向にいよいよ拍車をかけ、その極限にまで追いやっていった。それゆえ今日の家族は、生きるために必要な食料はもとより、育児・教育、介護・医療・保険等に至るすべてを、家の外で稼いだ賃金で賄わなければならなくなった。このことは同時に、人間が自然から乖離し、無機質で人工的な世界の中で家族がまるごと市場に組み込まれ、熾烈な競争にもろに晒(さら)されることを意味している。

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長編連載「いのち輝く共生の大地―私たちがめざす未来社会―」第1章(その1)

長編連載
いのち輝く共生の大地
―私たちがめざす未来社会―

第一部 生命系の未来社会論、その生成と到達
―自然界と人間社会を貫く生成・進化の普遍的原理を基軸に―

第1章
 生命系の未来社会論、その具現化の道「菜園家族」社会構想の問題意識
 (その1)

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長編連載「いのち輝く共生の大地」
第1章(その1)
(PDF:683KB、A4用紙11枚分)

大きなワシ(銅版画調・カラー)

1.21世紀の今、なぜ近代の人間の社会的生存形態「賃金労働者」を問い直すのか

迫り来る世界的危機のまっただ中で ―過剰の中の貧困
 投機マネーに翻弄(ほんろう)される世界経済。新型コロナウイルス・パンデミックのさなかにあっても、一握りの巨大金融資本、巨大企業、富裕層にますます莫大な富が集積する一方で、まともな医療さえ受けられず、路頭に迷う圧倒的多数の民衆。

 それでもこの機に乗じて、DX(デジタル・トランスフォーメーション)なるものによる新たな成長への幻想を演出しつつ、これまで急速に拡大させてきたにわか仕込みの観光産業※1 と、とどの詰まりはその背後にある巨大金融資本救出のための「Go To トラベル」だの、「Go To イート」だのと、感染拡大防止とは真逆の愚策に1兆数千億円もの国民の血税を注ぎ込む。ここに至ってもなお「浪費が美徳」の経済を煽(あお)る姿に、やるせない思いがつのる。
 果てには岸田自民党政権の軍拡大増税に至っては、狂気の沙汰である。ついに、かつての軍国日本の道に一歩踏み込んでしまった。オオタニサン!!などと浮かれている場合ではないのである。

 一方、容赦なく迫りくる地球温暖化による異常気象と、世界的規模での食料危機。国内農業を切り捨て、農山村を荒廃させ、食料自給率過去最低の37パーセント(2018年度)に陥った日本。2024年のこの夏には、小売店の店頭で米の品切れが現実に起こりうるのだということを、多くの国民が一瞬ではあるが実感することとなった。

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長編連載「いのち輝く共生の大地―私たちがめざす未来社会―」プロローグ(その2)

長編連載
いのち輝く共生の大地
―私たちがめざす未来社会―

プロローグ (その2)
 ―身近な過去を振り返り、はるか彼方の「未来」を考える―

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長編連載「いのち輝く共生の大地」
プロローグ(その2)
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星空と木

迷走する新型コロナウイルス対策
 「わずか1ヵ月半で流行をほぼ収束できた。日本モデルの力を示した」。新型コロナウイルスの緊急事態宣言を全国で解除した2020年5月25日、安倍晋三首相(当時)は、こう言い放って胸を張った。その後、根拠のない楽観ムードはいっそう強まる一方であった。

 同年6月24日、西村康稔経済再生相は、専門家会議(座長 脇田隆字・国立感染症研究所長)を廃止し、感染防止と社会経済活動の両立を図る必要があるとして、感染症の専門家以外にも、経済、自治体関係者や、情報発信の専門家らを加え、第二波に備えるとした。特措法に基づき、政権の責任転嫁の装置とも言うべき新たな会議体「新型コロナウイルス感染症対策分科会」なるものを設置すると表明。これだけはなぜかそそくさと実行に移した。

 世界規模で見れば、アメリカ、イギリス・フランス・イタリア・スペイン・ドイツなどEU諸国、ロシア、ブラジルをはじめとする中南米、インド、中東、アフリカなど、依然としてコロナが猛威を振るう国や地域が多く、感染増加ペースは減速どころか、加速していった。

 こうした厳しい現実に目を伏せ、わが国の政財界の主導的上層部は、「経済を回し、新しい日常を取り戻す」を呪文のごとく繰り返し唱えつつ、国民には「新しい生活様式」をと自助努力のみを促し、性懲りもなく刹那的「体験型」消費形態なるものを取り戻し、何が何でも経済を「好転」させようとした。
 「Go To キャンペーン」と称して、「Go To トラベル」、「Go To イート」、「Go To イベント」、「Go To 商店街」などと次々と繰り出し、コロナ以前の市場原理至上主義「拡大経済」、つまり人間の欲望を煽り、際限なく肥大化させ、経済格差、人間の分断と対立を助長する、かつてのあの非人道的で忌まわしい社会・経済システムにとにかく戻したいというのである。そして、その対価としての多大な最終的犠牲は、とどのつまり民衆につけ回すのである。

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