連載「希望の明日へ―個別具体の中のリアルな真実―」第5章(その2)

新企画連載
希望の明日へ
―個別具体の中のリアルな真実―

第5章 “菜園家族 山の学校” その未来への夢(その2)

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連載「希望の明日へ―個別具体の中のリアルな真実―」
第5章 “菜園家族 山の学校” その未来への夢(その2)
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4 諦念に沈む限界集落

 しかし、現実は、そう生易しいものではありません。
 “菜園家族 山の学校”の拠点となる大君ヶ畑(おじがはた)は、四十数戸(2008年)からなる、近世江戸時代の“村”を継承する伝統ある古い集落です。
 原初的な山岳信仰から生まれ、風雲を支配するという八大竜王が祀(まつ)られている白山神社と、浄土真宗の妙玄寺、宗願寺という2つのお寺があり、村の人びとは、四季折々の伝統行事を行ってきました。

写真5-4 白山神社「三季の講」秋の例祭(2001年9月)
白山神社の「三季の講」の秋の例祭(2001年9月)
「三季の講」を支える若衆集団は、村落構造の中心的役割を担ってきた。少なくとも近世以来続いてきたこの例祭も、若者の急速な減少によって、2005年秋を最後にその正式な形態は途絶えた。

 ところが、過疎・高齢化が急速にすすみ、白山神社の行事である「三季の講」や、御池岳への雨乞い踊り「かんこ踊り」すら、主役となるべき青年や子どもたちがいなくなり、継続が困難になっています。
 この集落を含む広大な鈴鹿山脈の森林地帯と、犬上川上流域の清流に恵まれた渓谷一帯をいかに再生させていくかは、地域の人びとにとって喫緊の課題ですが、現状ではあまりにも気の遠くなる難題であるといわざるをえません。

 かつては盛んであった薪や木炭や木材の生産を中心とする林業や、茶・大豆・繭(まゆ)・苧麻(ちょま)などの生産は、すっかり見られなくなりました。
 1880年(明治13年)の記録によれば、田地2町5反(2.5ヘクタール)、畑地7町8反(7.8ヘクタール)があり、農作物の収穫高は、うるち米24石(こく)、大麦5石、小麦1石、粟(あわ)4石、大豆6石、ソバ3石となっています(1石は約180リットル)。
 うるち米は255石が不足し、木炭・薪・木材などとの交換によって手に入れました。

 しかし、今や山はすっかり荒れ、シカやイノシシやサルによる「獣害」は、年々ひどくなるばかりです。狭い耕地は、杉林や薮(やぶ)の拡張によってますます狭められ、農林業だけでは家計は成り立ちません。各戸には自給用の小さな畑がやっと残っているばかりで、田地はなくなりました。

 住民のほとんどがお年寄りばかりになった以上、ここからの再起はとても困難で、ややもするとあきらめが先に立ってしまうというのが実情です。
 不条理な時代の仕組みに翻弄され、衰微していく山村。非情な運命を背負い、老いゆく者だけが取り残された今、この現状を変えることがどんなに大変か。この地に生きる人びとはもちろん、山を下りて遠くで暮らす人びとも、身にしみて知っています。
 そんな諦念にも似た気持ちに苛(さいな)まれながらも、過疎・高齢化が急速にすすむ現状を直視するとき、何とかしなければならないという思いが募るばかりです。

 第3章で触れた、私たちの里山研究庵のすぐお隣りで暮らす杉山一市おじいさん・富枝おばあさん。「私は元来、山が好きで」と、よく話してくださった富枝おばあさんは、ここ数年、厳しい冬を越すごとに、とみに体が弱り、入退院を繰り返すようになりました。
 そして2006年。近年あまり見られなかった大雪がようやく峠を越し、福寿草やフキノトウが長い冬枯れの大地を彩りはじめる早春の頃、息子さんや娘さんたちの配慮で、一時、住み慣れた山の家に帰られたものの、間もなく5月29日に息をひきとられたのです。

フキノトウ

 大君ヶ畑の老人会を代表して、安藤要一さん(1924年生まれ)は、富枝おばあさんへの深い哀惜の念とともに、村の窮状を訴えかけるかのように、弔辞を読みあげられました。それは、残された者への温かい励ましの言葉ともなって、いつまでも私たちの心のなかに生き続けています。

 「今からおよそ40年前、おそろしい病魔にとりつかれ、ご主人、ご家族の献身的な看護に応えられたあなたは、一種の根気をもって闘病生活を続けられ、夫一市様も涙ぐましい愛情で、夫婦仲睦まじく、再起不能と思われた難病とともに生きながらえられました。
 今まで生き抜かれた81年の生涯と闘病生活でかち得た愛と喜びと人びとへの慈しみが、あなたの握りしめた拳(こぶし)の中に、いっぱい詰まっていました。
 今、あなたは、その掌(てのひら)を静かに開き、私たちみんなに分け与え、浄土の御仏のもとへ帰られました。・・・この里山での生活の知恵、おごらず名誉を欲せず、謙虚で温かいあなたの心は、私たちの心の鑑(かがみ)として、なつかしく常(とこ)しえに生き続けることを信じます。あなたのご恩と友情に深謝して・・・」。

 富枝おばあさんがその小さな拳に握りしめてきた、この山に生きる苦しみや喜びを、次の時代に生きる私たちは、どのように受けとめ、引き継いでいくのでしょうか。

5 再起への思い

 大君ヶ畑の近代史を振り返ってみると、明治期に集落内の上(かみ)の方にある妙玄寺で、「盍簪舎(かつさんしゃ)」という私塾が開設されていた、という興味深い史実に出会います。
 地元の大君ヶ畑や犬上郡、彦根市のみならず、滋賀県の各地域、そして遠くは京都、大阪・堺、兵庫、愛知、三重、岐阜、福井、東京からもやって来て寄宿し、学んでいたそうです。その数は、延べ200余人にものぼると言われています。
 彦根まで徒歩で片道4時間という交通の不便な時代に、奥山の村にこれだけの人びとが集ったのは、驚きというほかありません。

写真5-5 大君ヶ畑集落の中心部に佇む妙玄寺
大君ヶ畑集落の中心部に佇む妙玄寺
明治期に私塾「盍簪舎」が開設されていた。

 盍簪舎で四〇余年にわたり子弟の教育に尽力した妙玄寺の住職・寺谷覚誠(かくじょう)(1856~1943)は、村のことにも心魂を傾け、道を造り、車馬を通し、植林や養蚕を奨励しました。
 奥山の小さな村が、地域の教育や学問や地域づくりの中心的な役割を担っていた時代もあったのです。活気にあふれたこの時代のことは、今でも土地の老人たちの語り草になっています。

 「盍簪(かつさん)」とは、中国の古典『易経』にある「朋盍簪(ともかつさん)」から出た言葉です。「盍」は合う、「簪」は疾(はやい)で、朋友が早く寄り合うことを意味しています。来たり集まる者を朋とし、ともに研鑽しようという理想の現れと言えるでしょう。
 このような学びの場が、明治という新しい時代の胎動のなかで、鈴鹿山脈の最奥の小さな山村に、確かに息づいていたことに、誰もが深い感銘をおぼえるのではないでしょうか。

 村の先人たちの、この自主・自立の気概に満ちた伝統を思うとき、21世紀をむかえた山村の現実は確かに厳しいけれども、この気概を受け継ぎ、何かをはじめなければ、このままずるずると深みに落ちるだけではないのか・・・。
 そんな反転への思いと諦念が交錯しながらも、大君ヶ畑の人びとは、今、ようやく動きはじめようとしています。“菜園家族 山の学校”には、こうした地域の人びとの深い思いが込められています。

 苦悩や諦念、そして反転への決断とがないまぜになった「渦」は、大君ヶ畑に限ったものではありません。市場競争至上主義のアメリカ型「拡大経済」に痛めつけられ、苦悩している農山漁村の至るところで見られる現実です。
 森と琵琶湖を結ぶ犬上川・芹川流域地域圏(エリア)の最奥の一角、大君ヶ畑から動き出した“菜園 山の学校”の試みは、小さな一地域に限られた個別特殊なことではなく、全国に見られる数多(あまた)の「渦」のひとつなのです。

 そうであるがゆえに、私たちがはじめようとしている試みは、決して個別的で孤立したものではありません。いかに小さく瑣末なものに見えても、現代世界において普遍的な意義をもつものといえるでしょう。
 今は諦念に苛まれてはいても、その意義が普遍であればこそ、来るべき次代の真実となり、やがて現実を動かす力となるのです。

諦念を越えて新たな希望へ
 限界集落と化した奥山の村。現状から脱却するには、これまでの林業や農業に対する考え方では、どうにもならないでしょう。21世紀にふさわしい新しい発想への転換が必要になります。
 それが、これまで縷々述べてきた「菜園家族」構想の週休(2+α)日制のワークシェアリング(但し1≦α≦4)です。この制度を、大君ヶ畑をはじめ、流域地域圏(エリア)の山村集落に導入することによってはじめて、農業・林業の後継者やUターン者や都会からの新規就農者の定着が可能になり、地域の力を高めていくことができるのです。

森と夜空

 週休(2+α)日制のワークシェアリング制度の導入にあたっては、地方自治体が大きな役割を果たさなければなりません。特に多賀町の行政は、第2章4節で述べた国・都道府県レベルの「CO削減(C)と菜園家族(S)創出の促進(S)機構(K)」(略称CSSK)との連携のもと、第4章で触れた公的「農地バンク」を早急に創設して、農地と勤め口(ワーク)を相互連関させながら斡旋し、問題解決に真剣に取り組まなければ、手遅れになってしまうでしょう。

 多賀町には全部で39の集落があり、このうち26の集落は、町総面積の85.45パーセントを占める広大な森林地帯に散在しています。山間にある26の集落のほとんどが、限界集落、あるいはその寸前か、すでに廃村となった集落であり、まことに恐るべき状況にあるのです。

 多賀町内には、多賀工業団地と中川原工業団地があります。1991年からは、広大な森林地帯と平野部が接するふもとの山林地帯を削り、伝統的な集落とは関係を断ち切られた形で、75.6ヘクタールにもおよぶ広大なびわ湖東部中核工業団地の造成がはじまり、1999年に完成記念式典が開催されました。
 この中核工業団地には、大阪・京都・東京などに本社を置く、大日本スクリーン製造、参天製薬、積水フィルム、三和シャッター工業、森下仁丹など十数社の企業が誘致されました。
 既存のキリンビール、平和堂多賀流通センター、ダイニックなどと合わせると、人口わずか8000人(2008年)のこの多賀町に、これだけ数多くの企業が操業しているのです。
 また、隣接する彦根市には松下電工やブリジストンなどの大企業があります。

 これらの企業は、すぐそばの広大な森林地帯に限界集落が集中し、その住民が疲弊している現実に、無関心であっていいはずがありません。第2章4節で述べた地球温暖化問題の観点からも、足元の森を守っている山村集落をむしろ積極的に支援する必要があります。
 今や企業も地域への社会的責任が強く問われる時代です。長い目で見れば、足元の地域が発展し、安泰であってはじめて、企業自身も、持続的な発展が保障されるのではないでしょうか。

 多賀町の行政は、こうした観点からも、「菜園家族」構想の週休(2+α)日制のワークシェアリングの趣旨と意義を深く理解する必要があります。そして、町内の産業構造や住民の就業状況の調査・分析と、地域再生へ向けた将来構想の策定が、緊急に求められています。
 そのための基礎資料として、町内に立地する工業団地をはじめとする各企業の従業員数、それに占める町内住民の被雇用者数の割合、派遣労働など非正規雇用の実態などの把握が不可欠です。
 加えて、多賀町内の地場産業や公共的機関(役場・学校・その他文化・医療・福祉施設など)、そして同じ流域地域圏(エリア)内にある彦根市・甲良町・豊郷町の民間企業や公共的機関についても、同様の把握が必要となります。

 このような基礎的な調査に基づいて、長期展望に立った町の「将来構想」を策定し、行政・企業・住民の三者による協議を重ねながら、勤め口(ワーク)と農地のシェアリングに関する三者協定をまとめることが大切です。
 こうした行政・企業・住民の三者による週休(2+α)日制のワークシェアリング協定のもとではじめて、多賀町内の広大な森林地帯に散在する過疎・高齢化に苦しむ集落では、農業・林業の後継者や、都会からやって来る若者や団塊世代の就農希望者が、応分の安定的な現金収入を保障され、次第に「森の菜園家族」として定着し、成長していくことになるでしょう。

 このようにして、農業・林業の新しい担い手が生まれてくるなかで、大君ヶ畑の場合であれば、明治初期、あるいは近世江戸中期の農業水準(数量的側面ではなく、質的側面での)への回復が、初動段階での目標になってきます。
 そのためには、かつての山のなりわいが息づいていた時代に、どの山と谷筋をどのように利用していたか、土地のお年寄りから詳しく聞き取ることからはじめなければなりません。
 そして、単一植林による人工的な杉林や藪に覆われた山林を含めて、広大な山をどう活かすのか、新しい発想に基づいて考えていくことです。

 地域の未来像を、子どもも若者も大人も、土地の人も都会の人も、分け隔てなく自由に話し合い、知恵を出し合って描いていく時代がきっとやってくるにちがいありません。
 こんな楽しいやりがいのある活動は、そうはありません。これが、これまで再三述べてきた、住民・市民による郷土の「点検・調査・立案」の連続螺旋(らせん)円環運動なのです。

写真5-7 大君ヶ畑区民運動会2(2002年10月)
写真5-6 大君ヶ畑区民運動会1(2002年10月)
「世代を越えてひとつになろう」をスローガンに掲げて開催された大君ヶ畑区民運動会(2002年10月)
大君ヶ畑集落では小学校分校が1996年に廃校、保育園が1999年に休園。2008年には、ついに集落在住の小学生1名、中学生1名となった。集落消滅の危機にさらされながらも、未来への糸口をつかもうとしている。

 かつての畑地の作物やシイタケを復活栽培する。ヤギや乳牛を放牧したり、養蜂、ニワトリの放し飼いを取り入れる。「獣害」を解決するためにも、狩猟(イノシシやシカなど)を盛んにし、食肉加工や料理の研究をすすめる。山菜を大いに活用する。多品目少量生産による、大規模ではない、あくまでも自給自足を基本にした、暮らしを楽しむ「森の菜園家族」のなりわいが、大君ヶ畑をはじめ、この流域全域に根づいていくことでしょう。

 人間にとって大事なのは、人間らしく生きられる空間があるということです。続出する空き農家を修復し、都会へ出て行った息子や娘や孫たち、そして都会からやって来る若者や団塊世代の人たちにも開放する。やがて、森の深い緑に囲まれた渓谷の清流に沿って、美しい希望の村が築かれていくことでしょう。

 “菜園家族 山の学校”は、こうして大君ヶ畑の集落を拠点に、森と琵琶湖を結ぶ犬上川・芹川流域地域圏(エリア)の要(かなめ)ともいうべきこの最奥の地から、この流域地域圏(エリア)全域を展望しつつ、さらには、いのち輝く“21世紀・近江国(おうみのくに)自然循環型共生社会”の形成をめざして、その大きな役割を果たしていくことになるでしょう。

 はるか彼方にあるこうした夢を身近に引き寄せ、第一歩を踏み出す力は、「流域地域圏(エリア)最奥の地から」という、まさにこの「辺境」からの視点と思想であり、気概です。
 やがてこの思想は、“菜園家族 山の学校”の「在野の学」としての「研究」と、それと固く結び連動する「教育」・「交流」の実践を通じて、いっそう鍛えられ、深められていくにちがいありません。

  夢は大きく
  実践は小さなことから
  無理せず、着実に、ゆっくりと

 これが、過酷な時代に生きる民衆実践の真髄です。
 こうした試みを可能にするのは、ひとえに大君ヶ畑の人びとの底力であるとともに、彦根市・多賀町・甲良町・豊郷町の一市三町からなる犬上川・芹川流域地域圏(エリア)に暮らす農山村と都市部の人びとの知恵と力です。
 そして、諦念と反転への思いが交錯する「渦」に揉(も)まれ、逡巡しながらも、それでもなお奮い立たせてくれるものは、新しい地域の未来に向かって、全国津々浦々で同じく努力している多くの人びとの存在であり、その絆であるのです。

  君知らずや

時勢に逆らい
初心果たせぬ
悔恨の思い

 罪をあがない
 生きぬく
 悲愴な思い

されど夢は
若き人びとの
熱き胸に甦る

 南東の空より
 おじがはたの谷川底に
 幽かに射し込む
 希望の光

本連載の原典『菜園家族21』(コモンズ、2008年)の出版から
  15年後の2024年2月 記す。

第5章4節・5節の引用・参考文献
『淡海木間攫(おうみこまざらえ)』(彦根藩領下の地誌書)、寛政4年(1792年)刊(滋賀県地方史研究家連絡会 編『淡海木間攫(3分冊)』滋賀県立図書館、1984・89・90年)
『滋賀県物産誌』、明治13年刊(滋賀県市町村沿革史編纂委員会 編『滋賀県市町村沿革史』第5巻<資料編>、1962年)
大君ヶ畑保存会・青年団宮守『多賀町大君ヶ畑三季の講』1992年
多賀町史編纂委員会 編『大君ヶ畑に伝わる古式行事について』多賀町公民館、19 71年
大君ヶ畑かんこ踊り保存会『大君ヶ畑のかんこ踊り』1992年

       ――― ◇ ◇ ―――

新企画連載「希望の明日へ ―個別具体の中のリアルな真実―」の掲載にあたっては、明らかな誤字・脱字・舌足らずな表現の類い等の若干の訂正以外は、原典『菜園家族21』(コモンズ、2008年)が出版された15年前の時点でのこの地域の実情をそのまま忠実に再現し伝えることを期して、統計資料、地図、文中の統計数字、関連する諸研究の成果などについては、改変を加えることなく、出版当時の通り、そのまま原典から収録することにしました。

2024年2月23日
里山研究庵Nomad
小貫雅男・伊藤恵子

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