連載「希望の明日へ―個別具体の中のリアルな真実―」≪小括≫

新企画連載
希望の明日へ
―個別具体の中のリアルな真実―

≪小括≫ ―北国の春、中間的まとめとして―

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連載「希望の明日へ―個別具体の中のリアルな真実―」
≪小括≫ ―北国の春、中間的まとめとして―
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舞い落ちる雪

≪小括≫ ―北国の春、中間的まとめとして―

CFP複合社会の措定と高次自然社会への道
 これまでの考察から、少なくとも2つの大切なことが明らかになってきました。
 1つは、19世紀以来、資本主義超克の道として模索され世界的規模で展開されてきた、生産手段の社会的規模での共同所有・共同管理を優先・先行させる従来型の社会主義理論の限界とその欠陥が、20世紀におけるその実践の失敗によって決定的になったにもかかわらず、今なおその根本原因の省察が不徹底であるということ。

 もう1つは、それゆえに、19世紀以来の未来社会論に代わる新たな未来社会論、つまり未来への明確な展望を指し示し、同時に現実社会の諸矛盾をも克服していく具体的な道筋を全一体的に提起し得る21世紀の確かな未来社会論を、いまだに構築し得ずにいるということです。

 戦前においても、そして戦後においてもそうなのですが、社会が直面する深刻な諸矛盾に向き合い、その解決を探る様々な努力が成されてきたものの、広い意味での未来社会論について言うならば、その時々の時代的制約から来るところが実に大きかったとは言え、外国の理論の模倣的適用に終始する傾向が強く、自国の現実に即してより具体的に、わが国独自の未来社会論を展開し練りあげていくという姿勢が、あまりにも希薄、ないしは欠如していたのではなかったのか。この欠陥を克服できずに、今日に至るまで問題を抱え込んできたと言えます。

 この点については、とりわけ戦後高度経済成長以降に限って見るならば、絶えず日陰の産業に追い遣られてきた農業・農村の現実に焦点を当て、その他第2次、第3次産業との関連のもとに社会を全一体的(ホリスティック)に捉え、そこから未来社会論を展開しようとする意識があまりにも希薄であったことを自戒を込めて指摘しなければなりません。その時々の目新しい舶来の未来社会論を追い求め、抽象レベルでの議論にあまりにも終始している現状に、このことは如実にあらわれています。

 私たち人類はこれから先、果たしてどのような長期展望のもとに、具体的にどのような道筋を歩んでいくべきなのか。
 これまで縷々、述べてきた「菜園家族」構想は、18世紀産業革命以来、人類が長きにわたって囚われてきた近代のパラダイムを根本から転換することによって、この難問に正面から向き合い、21世紀のあるべき新たな未来社会論を模索し、その基本を提示しようとしたものです。それが、「菜園家族」を基調とする“CFP複合社会”を経て、人類の悲願である人間復活の“高次自然社会”へ至る道です。

 つまり、従来の社会主義理論の根幹を成す生産手段の社会的規模での共同所有・共同管理(A型発展の道)ではなく、生産手段から排除され根なし草同然になった現代賃金労働者(サラリーマン)と、生産手段(自足限度の小農地、生産用具、家屋等々)との再結合(B型発展の道)を果たすことによって新たに生まれてくる家族小経営(「菜園家族」・「匠商(しょうしょう)家族」)を基軸に、未来社会を展望するのです。

 18世紀産業革命以来、大地から引き離され、「賃金労働者」となった人間の社会的生存形態は、今ではすっかり人々の常識となってしまいました。しかし、やがて21世紀世界が行き詰まる中で、これにかわって新しく芽生えてくるものに、その席を譲らざるをえなくなるでしょう。「菜園家族」は、まさしくこうした時代転換の大激動の中から必然的にあらわれてくる、人間生存の新たなる普遍的形態なのです。

 「菜園家族」構想は、この新しい人間の社会的生存形態とそれに基礎を置く家族の登場の必然性と、人類史におけるその位置を明らかにすることから説き起こしてきました。その上で「菜園家族」に人間本来の豊かさと無限の可能性を見出し、人類究極の夢である大地への回帰と、人間復活の自由・平等・友愛の高次自然社会への止揚の必然性とその展開過程を探ろうとしてきました。

 この長い道のりとなる全過程の初動の段階に、「菜園家族」を基調とするCFP複合社会を明確に位置づけています。こうすることによってはじめて、高次自然社会への道を単なる理念に終わらせることなく、そこに到達するプロセスをより現実的、具体的かつ多面的に論じることが可能になってきたように思います。

 換言すれば、こうした未来社会の生成・進化の過程を、CFP複合社会の揺籃期(制度的に未確立の段階で、ごく限られた個々の人びとや家族の努力によって模索され、細々と実践されている今日の時代)からはじまり、新しい「真に民主的な政府」の成立(国レベルに限らず地方自治体レベルも含む)のもとでの本格形成期を経て、自然循環型共生社会(セクターCのPへの質的変化にともなって漸次達成されるFP複合社会)、さらには高次自然社会へと至る壮大な道のり、つまり人間社会の自然への回帰と止揚(レボリューション)の論理とその必然性をできるだけ具体的に論じてきました。
 まさにこうした議論を通じてはじめて、私たちは、今日における当面の実践的課題をも、より具体的に明らかにしていくことが可能になるではないでしょうか。この未来社会論が、過去のいかなる理論にも増して現実味を帯びてくる所以もここにあります。

 これまでの近代的価値観とはまったく異なる次元に、それと対峙して、「菜園家族」つまり市場原理に抗する免疫力に優れ、自らの自然治癒力を高めた自律的な生き生きとした家族を地域に1つひとつ着実に築き上げていく。
 こうした民衆の日常普段の自己生活防衛とも言うべき人間的営為を支え、それを常態化し、やがて制度化を目指すこの週休(2+α)日制のワークシェアリング(但し1≦α≦4)による三世代「菜園家族」構想は、19世紀以来考えられてきた様々な未来社会論をはるかに超えた、素朴で精神性豊かな新しい社会のあり方と、そこへ至る確実で具体的な道筋を提起しているところに特長があります。

 それは戦後高度経済成長の過程で無惨にも衰退した家族と、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)を一体的に甦らせ、農山漁村の過疎高齢化と都市の過密を同時解消するとともに、「菜園家族」を基調とする自然循環型共生の地域社会を隈無くバランスよく1つずつ積み上げていくことによって、国土全体をグローバル市場に対峙する「免疫的自律世界」に構築していくことになるのです。

 「新成長戦略」、そして「アベノミクス」、さらには「新しい資本主義」なるものに幻想を抱き続けながら、ついにはどうしようもない破滅へのスパイラルに陥っていくぐらいならば、たとえ「菜園家族」構想が時間のかかる苦難の道であったとしても、人類の崇高な理想に向かって生きることが、なかんずく若者にとって、どんなに人間として生き甲斐のある生き方であるかが次第に分かってくるはずです。
 私たちは根拠のない空虚な淡い幻想を繰り返し抱き、現実から目をそらしてきたのではなかったのか。私たちはあまりにも長い間、目前の些細な功利に振り回され、本来の目標を見失い、夢を描くことすら忘れてしまったのではなかったのか。このことを深く自戒しなければなりません。

 人類が究極において、大自然界の中で生存し続けるためには、人間社会の生成・進化を規定している「指揮・統制・支配」の原理を、自然界の摂理ともいうべき「適応・調整」(=「自己組織化」)の普遍的原理へと、実に長い年月をかけて戻していかなければならないのです。このことについては、すでに述べてきました。本当の意味での持続可能な自然循環型共生社会の実現とは、まさに、人間社会の生成・進化を律する原理レベルにおいて、この壮大な自然界への回帰と止揚(レボリューション)を成し遂げることにほかならないのです。

 大自然界の摂理に背き、人類が自らつくり出した原発、つまり核エネルギーの開発と利用という自らの行為によって、無惨にも母なる自然を破壊し、自らのいのちと自らの運命をも絶望の淵に追い遣っている今こそ、人間存在を大自然界に包摂する新たな世界認識の枠組みのもとに、その原理とその思想を未来社会構想の根っこにしっかりと据えなければならないのです。
 これまで人類が成し遂げることができなかったこの壮大な課題が、2011年3・11東日本大震災・福島原発過酷事故を経た今、21世紀に生きる私たちに最後の機会として与えられています。この課題から逃げることなく、真っ正面に据えて取り組む。こうしてはじめて、道は開かれていくのではないでしょうか。

北国、春を待つ思い
 琵琶湖畔・鈴鹿山中に研究調査の拠点をおく私たちの出発点には、長年にわたって研究してきたモンゴルの遊牧地域があります。モンゴルがアジアの片田舎であるとするならば、遊牧の村ツェルゲルは、そのまた片田舎の小さな地域社会であると言えます。
 そんな「辺境」で生きる人びとの姿は、私たち現代人の暮らしのあり方や、ますます混迷を深める世界のゆくえを見つめる上で、実に大切な視点を与えてくれたように思います。

仔羊に哺乳するバドローシさんと子供たち
早春、仔羊の誕生を喜ぶモンゴル遊牧民の家族。
子どもたちも哺乳を手伝う

 モンゴルの遊牧民が好む花に、ヤルゴイ(モウコオキナグサ)という早春の草花があります。北国の高原の酷寒に耐えぬいたヤルゴイの草たちは、春を迎え大地が根雪をとかすと一斉に芽を吹き出し、紫や黄色の小さな花を咲かせます。これは現実かと目を疑うほど華やかに冬の灰色を吹き飛ばし、なだらかな丘陵の南斜面に鮮やかな色彩をひろげます。それは、見事な生命力を見せつけてくれます。

 この小さな蕾には、ビタミンがいっぱい詰まっているといいます。長い冬の間、雪の下でじっと堪えたエネルギーが、一気に噴き出すからでしょう。越冬に体重を3割近くも減らし、憔悴しきった家畜たちは、丘にうす緑が広がると一斉に駆け登り、春一番に咲くこの栄養源を夢中になって食(は)み、急速に体力を回復していきます。

 大自然の循環の中で、家畜たちの生命(いのち)の再生のために、肩ひじ張らず、あるがままに献身するこの可憐な花に、遊牧民たちは自らの生きざまを重ね合わせます。そしてわが身も同様、地上と天上を巡る大循環の中にあることを思います。それは、自己の生存の因縁を悟り、生命(いのち)に対する敬虔な心に浸る一瞬でもあるのです。

 モンゴルの自然は厳しい。しかし、じっと目を据える余裕があるならば、大地と家畜と人間が、悠久の歴史の中で織り成し創りあげてきた、繊細にして見事な世界がそこにあることに気づくでしょう。人間は、まさにこうした世界の中にあってはじめて、自然の過酷さに耐える能力も、つつましさとか心優しさといった人間の優れた資質をも育むことができたのです。

 先進工業社会に生きる私たちは、あまりにも科学技術を過信すると同時に、市場原理を神格の座に祭り上げ、欲望を掻き立てひたすら走り続けてきました。その結果、人びとは大地から分断され、極めて人工的な閉じられた世界の中で、100パーセント賃金に依存する根なし草同然の暮らしを強いられることになったのです。
 個性的で多様な幸福観は、人間が大地を失い耕すことを忘れたその時から、次第に画一化され始めます。人間の幸せはいつしかモノとカネによってのみ計量され、心の安らぎはますます失われていきます。今人類は、手のつけようのない不可解な世界に迷い込んでしまったようです。このままでは断崖から落ちていくほかないでしょう。

 人間は自然の一部であり、人間そのものが自然であるという、現代人にはとうに忘却の彼方に追いやられたこの命題が、文明の地の果てと言われる“遊牧の世界”に、今もなお見事に息づいていることを記憶に留めたいものです。
 映像作品『四季・遊牧 ―ツェルゲルの人々―』(三部作全6巻、7時間40分、小貫・伊藤共同制作、1998年) は、そのような世界でたくましく生きる遊牧民の姿を描いています。この長編ドキュメンタリーは、1992年秋から1年にわたって、首都から南西へ750キロ離れた大砂漠にそびえるゴビ・アルタイ山中の遊牧の村ツェルゲルでおこなった、住み込み越冬調査の記録をもとに制作したものです。

ツェンゲルさん家族
ツェンゲルさんとその家族
「民主化」以前から、過酷な自然とたたかいながら、仲間とともに「地域」再生を模索してきた

 今から23年前の2000年、秋も深まり肌寒くなった仙台の東北大学で、この作品の上映会が開催されました。一般の市民のほかに、三十数名ものモンゴル留学生が参加。なかでも、中国内蒙古自治区から来た留学生は、複雑な思いで見入っていたようです。

 その一人、植物生態学専攻の大学院生(当時)ナチンさんによると、お国では、圧倒的多数を占める漢族の中で、モンゴル族はただでさえ肩身が狭いのに、中国の高度経済成長のただ中にあって、遊牧は遅れた前世紀の遺物とみなされ、心の故郷(ふるさと)さえも失ってしまったといいます。仲間たちに民族文化の大切さをいくら説いても、大勢(たいせい)の中、ほとんどの人が考えようとしないか、諦めの境地にいます。映像作品『四季・遊牧』は、こうしたやるせない気持ちを一気に吹き飛ばしてくれるものだったといいます。

 さらに彼は、熱を込めて意外な指摘をつづけました。「民族として生きる心の故郷(ふるさと)を失った内蒙古の我々と同様、今日の日本の人びとも自国の中に故郷(ふるさと)を失っています。そこに、両者が理解しあえる共通の何かがあるのではないか」と。

 私たちは長年の間、『四季・遊牧』の世界を「辺境」からの大切な視点として受けとめ、そこから日本の現状を見つめ直し、未来のあるべき姿を模索してきたのですが、私たちの考えの核心部分と、彼の思いとがあまりにも一致していることに驚かされました。

 市場原理は、科学技術と手を結ぶやいなや、人間の意識下に眠る欲望をかき立て、煽り、一挙に暴走をはじめます。高度経済成長の過程で、人びとは、一方的な市場の論理によって大地から引き離され、大地という故郷(ふるさと)を失い、心の不安に苛まれています。

 朝昇る太陽に今日一日を祈り、夕べに沈む太陽に今日一日を感謝する。そんな中で平和な気持ちで暮らせることが、豊かなことではないのか。いのちに対する慈しみの心、感謝や尊敬の気持ちが根っこにない暮らしは、嘘だと思う。だから、21世紀こそは故郷(ふるさと)を奪還し、大地に根ざした人間本来の暮らしをとり戻さなければ・・・。
 いつしかナチンさんと私たちは、高揚感に浸っていました。

 留学生たちは、宴席ということもあってか、次第に閉ざされた心を開いて、幾度も千昌夫の「北国の春」を流暢な日本語で歌っていました。
 「届いたおふくろの小さな包み あの故郷(ふるさと)へ帰ろうかな 帰ろうかな」。
 この最後のリフレインが、“大地”を呼び戻す切なる叫びに聞こえて、いつまでも耳から離れませんでした。
 千昌夫さん、あなたの目の届かないところで、今なおあなたの歌に鼓舞され、誠実に生きようとしている人がいるのです。

 東日本大震災・未曾有の原発事故、気候変動、新型コロナウイルス・パンデミック、さらにはウクライナ戦争、イスラエルの強権的為政者によるガザ住民の虐殺。こうした世界的複合危機の時代にあってもなお、特権的政治家は、目先の瑣事に心を奪われ、今の温もりを何とか失うまいと必死になっています。景気回復とか成長戦略とか「成長と分配の好循環」などと聞こえはいいが、それは所詮、従来型の生き方を強化こそすれ、決して変えるものではありません。
 今必要とされているのは、18世紀イギリス産業革命以来のパラダイム、ないしは路線の根源的転換であり、勇気なのです。

 大地に生きる素朴な精神世界への回帰と人間復活の壮大な道のりを心に描き、『四季・遊牧』のエンディングから次の詩(ことば)を引用し、未来に夢をつなぎたいと思います。

 それがどんな「国家」であろうとも
 この「地域」の願いを
 圧(お)し潰(つぶ)すことはできない。

 歴史がどんなに人間の思考を
 顛倒(てんとう)させようとも
 人々の思いを
 圧し潰すことはできない。

   人が大地に生きる限り。

 春の日差しが
 人々の思いが
 やがて根雪を溶かし
 「地域」の1つ1つが花開き
 この地球を覆い尽くすとき
 世界は変わる。

   人が大地に生きる限り。

このドキュメンタリー映像作品『四季・遊牧 ―ツェルゲルの人々―』(小貫雅男・伊藤恵子共同制作、三部作全六巻・7時間40分、大日、1998年)は、東西冷戦の終結、ソ連社会主義体制の崩壊、市場経済への移行という激動期のただ中、1992年秋からモンゴル山岳・砂漠の村ツェルゲルで行われた1年間の住込み調査に基づき、四季折々の自然とそこに生きる遊牧民の暮らし、地域再生の模索を描いている。
  そのダイジェスト版(前編・後編 各1時間40分)をYou Tubeに公開中。
  前編 https://youtu.be/8ckpvZv3blc
  後編 https://youtu.be/8WR0TCZd7O0

       ――― ◇ ◇ ―――

年内の掲載はここまでとし、新年1月6日(土)から連載を再開する予定です。
  みなさま、どうぞ良いお年をお迎え下さい。

2023年12月22日
里山研究庵Nomad
小貫雅男・伊藤恵子

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