“シリーズ21世紀の未来社会(全13章)”の要諦再読―その20―

“シリーズ21世紀の未来社会(全13章)”の
要諦再読 ―その20 ―

生命系の未来社会論具現化の道 <4>
―自然界の生命進化の奥深い秩序に連動し、展開―

労働運動に「菜園家族」の新しい風を
―労農一体的人格融合による
 人間の新たな社会的生存形態創出の時代へ―

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要諦再読 ―その20―
“労働運動に「菜園家族」の新しい風を”
(PDF:624KB、A4用紙11枚分)

白い花・緑の葉っぱ・黄色い実

1 21世紀の労働運動と私たち自身のライフスタイル

身近な試練を厭わず目を明日の広い世界へ
 週休(2+α)日制のワークシェアリングによる「菜園家族」社会構想は、いわゆる主流派労働組合の連合(日本労働組合総連合会)などに象徴されるように、労働者の代表を僭称する職業化された一部労組幹部によって長きにわたって牛耳られ、沈滞と後退を余儀なくされてきたわが国の労働運動に、根本からその変革を迫っていくものになるであろう。

 既成の労働運動が惰性に流れ、従来型の賃上げ要求の狭い枠組みに閉じ込められ、労働運動そのものが衰退へと陥っていく中にあって、この新たな社会構想の実現をめざす運動は、週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリング(但し1≦α≦4)によって、農民と賃金労働者という、いわば前近代と近代の人格的融合による、労農一体的な21世紀の新たな人間の社会的生存形態、すなわち「菜園家族」を創出していくその性格上、必然的にこれまでの労働運動には見られなかった新たな局面を切り拓いていくことになろう。

 それは、自ずから近代を社会の根底から超克するまさに新しい働き方、新しいライフスタイルの創出へと向かわざるを得ないものであり、そこに「正規」「非正規」の分断、男女の分断、世代間対立、そして都市と農村の垣根を乗り越えた、これまでには見られなかった、それこそ時代を画する多彩で個性豊かな広範な国民的運動へと展開していく可能性が秘められている。

 現実に、フランス、ドイツ、オランダ、スペインなどの西欧諸国では、働き過ぎからゆとりのあるライフスタイルへの移行をめざして、1人当たりの週労働時間短縮によるワークシェアリングの様々な試みが、実行へと移されている。
 『オランダモデル ―制度疲労なき成熟社会―』(長坂寿久、日本経済新聞社、2000年)によれば、特にオランダでは、1980年代初頭に高失業率(1983年に12%)に悩まされた経験から、その克服の道を政労使三者で模索し、パートタイム労働の促進によって仕事を分かちあうワークシェアリングへと合意形成を積み重ねていった。これは、単なる失業対策にとどまらず、1人当たりの労働時間の短縮によって、「仕事と家族の関係を和解させたい」という多くの労働者の願いを実現しようとするものでもあった。

 オランダの労働者がパートタイム労働の促進に期待したのは、1つ目に何よりも「健康と安全」、2つ目は「労働と分配の再配分」と「雇用創出」、3つ目は労働時間の多様化によって「支払い労働(雇用)と不支払い労働(家事・子育てなど)の再配分」、つまり「男性と女性の分業」の克服をはかること、4つ目は個人の自由な時間を増やし、自分で時間の支配が可能となれば、「個人の福祉の増加」につながり、「社会参加」の可能性を広げるであろうこと、という4つの観点からであった。
 それは、夫婦がともにフルタイム勤務で企業の賃金労働に自己の時間の大部分を費やすのではなく、いわば夫婦2人で「1.5人」前という新しい働き方の確立を望む声でもあった。そして、フルタイム労働とパートタイム労働の「対等の取り扱い(イコール・トリートメント)」を求める長年の努力は、1996年に「労働時間差による差別禁止法」の制定へと結実していった。こうした傾向は、ますます世界の趨勢になっていくことであろう。

「菜園家族」型ワークシェアリングと21世紀労働運動の革新
 このようなことを考えると、週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリングも、決して夢物語や空想ではないはずである。しかも、人間の本来あるべき暮らしのあり方を求めて、「菜園」や「匠・商」の自営基盤で補完することによって、これまで国内外で実施あるいは提唱されてきたワークシェアリングの欠陥を根本から是正し、実現可能なものとして提起している。
 今日、一般的に言われているワークシェアリングが、不況期の過剰雇用対策としての対症療法の域を出ないものであるのと比べれば、この「菜園家族」型ワークシェアリングは、未来のあるべき社会、すなわち、ゆとりあるおおらかな自然循環型共生社会(じねん社会としてのFP複合社会)へと連動する鍵となるメカニズムを内包している点で、世界的に見てもはるかに先進的な優れたシステムであると言えよう。

 2008年リーマン・ショックに端を発した「百年に一度」とも言われる世界同時不況、2011年3・11東日本大震災と福島原発苛酷事故、そして気候危機、2020年新型コロナウイルス・パンデミック、さらには2022年ウクライナ戦争という相次ぐ深刻な事態のもとで、これまでの社会のあり方そのものが根本から問われている今、私たちは、いつまでも従来型の「経済成長」の迷信に頑(かたく)なにしがみついているのではなく、大胆に第一歩を踏み出す時に来ているのではないだろうか。

 21世紀の今、国民の要求は多様化しているだけではなく、就業人口の90パーセントにおよぶ根なし草同然の現代賃金労働者は、生活の不安定さと苛酷さゆえに、巨大都市化し極端なまでに人工化した生活環境の中で、大地から乖離し、あるべき野性を失い、肉体も精神もズタズタにされ、衰弱していく。
 特に福島原発事故と新型コロナウイルス・パンデミックを機に、人々は自然回帰への志向をますます強め、大地に根ざした自然融合の新しいライフスタイルと、それを支える新しい働き方をもとめている。今まさにこうした多様で広範な人々の切実な要求に応え得る、21世紀の今日にふさわしい新しい労働運動のあり方がもとめられている。
 連載「要諦再読―その18―」の2節で提起した農地とワークの一体的シェアリングとそれに基づく地域再生も、このような新たな労働運動の中ではじめて、その可能性を広げていくことになるのである。

2 政治の凄まじい腐敗と大学の荒廃
 ―“大阪大学非常勤講師大量雇い止め”の真相―

 大阪大学理事会は、劣悪な差別的労働条件の下で、長年の間、懸命に研究・教育に携わってきた非常勤講師を、突如、「公募」というまやかしの手口を弄して、2023年3月末で大量に雇い止めにした※1
 これはもとより、「無期労働契約への転換権」を定めた労働契約法第18条違反の行為であり、人間をまるで機械部品のように使い捨てにして恥じない無慈悲、かつ人権蹂躙の悪辣きわまりない行為である。しかも、これを研究・教育の府であるべき大学において、平然と強行したのである。

 これは、まさしく長きにわたるわが国の政治腐敗の反映そのものであり、すべての国民、なかんずく大学全構成員一人ひとりに突きつけられた、卑劣極まりない挑戦そのものである。

 大阪大学理事会のこの違法、かつ人道に反する不当な行為に対して、2023年2月9日、非常勤講師有志4名が大阪地裁に提訴、現在、係争中である。同年3月16日には第1回口頭弁論が開かれ、原告側から以下のような意見陳述が述べられた※2

   ――― * * ―――

  意見陳述書

大阪地方裁判所5民事部合議4B係 御中
 2023年3月16日  原告( 氏 名 )

1)私は、大阪大学で勤務する約1100人の非常勤講師を契約更新10年上限で毎年順次、大量に雇い止めにするという今回の事態は、研究・教育の府である大学が、組織的、系統的、しかも大掛かりに基本的人権を蹂躙する、何よりも人間の尊厳の問題だと考えています。

2)私たち原告4名は、本業や本務校のない、いわゆる「専業非常勤講師」として、長年にわたり大阪大学で授業を担当してきました。
 専任教員と同じように、授業の計画、実施、成績評価を自らの責任で行っていますが、給与は授業回数分のみで、残業代や研究費などの支給はなく、生計のために複数の大学で授業を掛け持ちし、しばしばアルバイトで補いつつ、懸命に生きています。

3)私たちの担当する科目は、カリキュラム全体の中で、恒常的、継続的な科目として位置づけられています。にもかかわらず、半年または1年の有期雇用とされているため、契約更新があるかどうか、常に不安を抱えながら学生たちに講義をしています。
 そんな私たちにとって、無期雇用への転換は、最低限の要求です。

4)ところが、大阪大学は、無期雇用への転換を頑なに認めようとしません。その理屈は、2021年度まで、労働契約ではなく、「準委任契約」であったからというものです。全国の大学で、準委任契約だから労働契約法の適用がないなどという現場の就労実態とまったく違う口実にこだわっているのは大阪大学だけです。

5)私の所属する外国語学部では、2022年7月、教授会において突如、非常勤講師の公募制度の導入が決定されました。当事者の私たちには公式の説明会さえ開かれないまま、2022年9月中旬から、来年度(2023年度)の公募が強行されました。
 この公募では、私たちのような雇い止め対象者は、たとえ応募したとしても、6ヵ月以上のクーリング期間を空けなければ、採用・再雇用は不可とされています。
 私は、これは、無期転換を回避するための、組織ぐるみの大掛かりな「偽装公募」としか言いようがないと考えています。

6)先に述べたように、不安定雇用の非常勤講師は、劣悪な労働条件のもと、将来にわたって何の身分保障もないまま、常に生活の不安に苛まれています。
 その上、大学内部においては、何重もの管理・統制構造(大学理事会→各学部→各専攻→専任教員→非常勤講師)の最末端に置かれています。
 こうした中で、それぞれの非常勤講師は、理不尽を飲み込み、結局は「自己責任」で、これを機に、大阪大学を去るのか、それとも、不本意にも無期転換権を捨てて、6ヵ月以上のクーリング期間を甘受し、公募に応じるのか、という究極の選択と決断を迫られ、苦悶してきました。

7)今回、原告は私たち4人ですが、無権利状態の中、声を上げることすらできない、同じ立場の非常勤講師がどれほどいることか、ぜひ想像していただきたいと思います。
 大学当局の陰湿で画策的な態度を前に、無期転換の申込みすら、ためらう人がほとんどです。労働者の権利であるはずなのに、なぜ、その行使を私たちの側が怯えなければならないのでしょうか。

8)本来、大学は、広い視野に立ち、誰もが平等・対等、自由闊達に研究・教育を行う場であるはずです。とりわけ苦難の時代にあっては、若い学生たちと真摯に語りあい、明日への光を見出していく希望の場でもあるはずです。
 その一端を担う教員自身が、このような生活の不安と、精神的隷従に追い詰められていて、どうして、学生たちとののびやかな学びあいの場が保障されるのでしょうか。
 ともに働き続けてきた非常勤講師の仲間たちは、今まさに3月末をもって、無念の思いを胸に散り散りになっていきます。

9)私たちはそれぞれ、誠実に研究に励み、学生たちの教育にあたってきました。
 大阪大学は、大量雇い止めを撤回し、労働契約法第18条で定められた5年無期転換という最低限のルールを守ってほしい。
 この国に生きる同じ人間として認めてほしい、という思いでいっぱいです。
 私たちをいつもの教室に戻らせて下さい。 以上

   ――― * * ―――

※1、※2 大阪大学非常勤講師大量雇い止め問題の経緯の詳細、および雇い止め撤回と無期転換を求める裁判の進捗状況については、「阪大裁判原告を支える会」のホームページhttps://sites.google.com/view/kansai-hijokinやツイッターhttps://twitter.com/Unitepartimelecを参照されたい。

私たちは大学においてなぜこんな非人道的事態を許すに至ったのか
 周知のようにわが国においては、小泉政権(2001~2006年)以来、悪名高い新自由主義のもと、非正規社員が急速に拡大、今や雇用労働者の40パーセントにも達し、さらに増加の一途を辿っている。今日の国民の生活苦、社会不安の根底には、この歴史的構造的矛盾が抜き難く横たわっている。

 本来、研究・教育の府である大学は、こうした状況にいち早く警告を発し、防波堤の役割を果たすべき立場にありながら、それどころか自ら権力に唯々諾々と追従し、しかも率先してその片棒を担ぐ始末である。人間の尊厳に関わる人権すら平然と踏みにじり恥じない大学に、果たして今後、何ができると言うのであろうか。
 同様の将来不安の中で今、悩み苦しむ多くの若き学生・院生たちに、大学は己の非を一体、何と説明するのであろうか。大学はどこまで堕落すれば気が済むのであろうか。誠に残念である。
 表には見えない大学のこの荒んだ実態を、一人でも多くの市民のみなさんに知っていただきたいと思う。

 この“大阪大学非常勤講師大量雇い止め”問題は、決して大学だけに限られた小さな問題ではない。全国各地の小中高校においても非正規教員がますます増大し、深刻化している。この連載「要諦再読」でも縷々述べてきたように、これは、わが国社会の構造的矛盾、政治腐敗に起因するきわめて深刻で重大な根源的問題なのである。

 旧統一教会と歴代自民党政権との根深い因縁と政治の深刻な腐敗。さらには、隣邦諸国からの侵攻の危機を煽り、恐怖心と敵愾心を掻き立てつつ、「国民のいのちと暮らしを守る」などと嘯き、呪文の如く繰り返し唱えながら世論を誘導し、果てには大学にまで触手を伸ばし、軍事研究へと動員する。日本国憲法の根本精神をすっかり忘れ去り、「軍拡増税」「軍拡国債」、果てには「別途公金」の活用などとわめき立て、軍備拡張へと邁進する昨今の異常さは、さながら戦争前夜の観すらする。
 これら諸々のことを合わせ考える時、今日のわが国の事態は、もはや放置できないギリギリのところにまで来ていることに気づくはずである。

 非常勤講師大量雇い止めのこの問題も、大阪大学理事会幹部の卑劣を糾弾すべきはもとより、この際、大学人としての最低限の矜持すら忘れ、それを許してきた大学全構成員自身も、自らの問題として深く受け止め、真剣に考えなければならない時に来ているのではないか。
 国公立大学の法人化以降、大学の自治は、知らず知らずのうちに根底から見事に切り崩されていった。今や大学は、国家権力に奉仕する下僕(しもべ)に成り果て、大学の自治は、市民のみならず、大学の内部においてすら、すっかり死語となってしまった。ますます目先の成果に追い回され、自由で溌剌とした研究・教育は、圧殺されていく。これでは国民から信頼されるどころか、自由で創造的な研究・教育の発展は望むべくもない。

 こうした昨今の大学の荒んだ状況にあって、私たちは、21世紀の今日にふさわしい理念に基づく新たな大学の再建に、ゼロからスタートする覚悟で臨まなければならない。
 学生・院生の学習・研究条件、常勤・非常勤を問わず、大学で働く研究者・教員および職員という大学全構成員の労働条件、福利厚生、そして大学本来の社会的役割である自由な研究・教育の発展を保障する不可欠の絶対的条件は、その時々の外部権力の不当な圧力、干渉に屈しない大学の自治の確立である。
 これら諸々の全一体的な発展を支えるに必要不可欠な存在こそ、まさしく常勤・非常勤を問わず、大学で働くすべての構成員によって自主的・主体的に組織される、新たな理念に基づく教職員組合の存在であり、それをめざすゼロからの再建なのである。

わが国の労働運動は先進諸国の中でも最低、最悪
 まさに自らの足元の冷厳な事実に対するこの無自覚、ないしは諦念こそが、今日のわが国社会の長期混迷と閉塞の最大の根源である。
 わが国は、先進諸国の中でも労働組合の組織率が際立って低い上に、職場でもっとも弱い立場に置かれている非正規労働者が実質上、排除されているなど、労働組合としての本来の役割を果たしているとは言い難い、いわば名ばかりの組合がほとんどである。わが国最大の労働組合のナショナルセンターと言われている連合(日本労働組合総連合会)もその例外ではなく、御用組合と言われていることは、周知の事実である。

 もともとあった国民の多様で豊かな精神と創造の無限の可能性は、戦後長きにわたる、目先の利益誘導に走る「選挙運動」という極端に矮小化・形骸化した欺瞞の枠組みにすっかり取り込まれ、無惨にも衰退し、果てには「お任せ民主主義」への安住と主体性の喪失にいよいよ拍車がかけられていく。

 こうした状況の中で、今や雇用労働者の40%をも占めるに至った非正規労働者は、分断と孤立を余儀なくされ、将来不安に怯え、さまざまな事情や理由から声を上げることすらできず、個々バラバラに放置されたまま、悩みを抱え込み苦しんでいる。
 労働組合の組織率が低下する中、日本国憲法第二八条「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。」の条文に明らかに抵触する「過半数代表制」(労働基準法第90条)なる姑息で不当な画策などは、むしろ、多様で豊かな労働運動の発展の可能性を阻害するものであり、その上、とりわけ非正規労働者は、正社員中心の従来型の労働組合活動からも排除され、その圧倒的多数にとって、憲法第二八条はもはや空文と化し、実質上、無権利、無法の状態に閉じ込められてしまったのである。

 今、私たちが何よりもまずすべきことは、形骸化した「選挙」のみに頼る「お任せ民主主義」の欺瞞性、ないしは魔性から解き放たれ、覚醒することである。やがて日本列島各地の「労働現場」や「地域」から、必然的に新しい時代を切り拓く主体的で多彩な草の根の民衆運動が、自ずから竹の子の如く次々と頭角を現してくるにちがいない。
 各地に散在する民衆自身のこの運動は、やがて互いに合流し、大河となって、豊かで分厚い自らの社会的、経済的、文化的基盤をゆっくりと着実に築き上げていくことであろう。民衆自らが築き上げたこの土台の上に、明日への新たな社会変革の本格的な時代がはじまるのである。こうしたプロセスにこそ、人間は生きる喜びと真の生き甲斐を感じるのである。

 これこそが理に適った、変革主体生成の本来のあり方ではないか。まさにそれは、壮大な自然界の生成・進化を貫く「適応・調整」の原理(=自己組織化) に相応しい姿なのである。
 人間社会の発展の原理においても、自然界を貫くこの生成・進化の原理に可能な限り近づけ、人間自身がただひたすらその条件を粘り強く整えていくことなのではないか。上からの強権的介入や強制であってはならないのである。これが、20世紀人類が多大な犠牲を払って学んだ、最大にして貴重な歴史的教訓でもあったはずだ。

シリーズ“21世紀の未来社会(全13章)”の第三章「今こそ近代のパラダイムを転換する」の項目「自然界の生成・進化を貫く『適応・調整』の原理と人間社会」で詳述。

広く世界に目を向け、身近な試練に立ち向かう
 片や、フランス、ドイツ、イギリス、スペインなど西欧諸国では、今、労働者・市民たちが、物価高騰の中、連日、自らの生活苦を訴え、老いも若きも正々堂々とデモに参加、抗議を続けている。
 こうした姿を見るにつけ、わが国においても、憲法第二八条で認められている「労働者の団結権、団体交渉権、団体行動権」に基づき、人道に反する差別的非正規労働の強制と、国民の生活と生命を根底から破壊する「軍拡大増税」の卑劣な企みに対して、異議を申し立てる一大国民運動が全国各地で湧き起こっても不思議ではない、そんな時に来ているのではないか。

 大学における教職員組合の再建は、戦後長きにわたって後退に後退を重ねてきた、こうしたわが国の労働運動と国民運動全般における低迷の末の厳しい現実からの出発なのである。その困難は並大抵なことではないが、そこからの出発なくして、大学の将来はないと言っても過言ではないであろう。
 今日直面している“大阪大学非常勤講師大量雇い止め”問題も、何よりもまずこうした現実の苦難をしかと自覚、覚醒し、長期展望のもとに一歩一歩、解決していくことからはじめなければならない。

 それは、連載「要諦再読―その18―」の2節「『菜園家族』創出を促す具体的地域政策」、および今回の1節「21世紀の労働運動と私たち自身のライフスタイル」でも述べたように、これまでの労働運動の負の遺産を背負いつつも、より高次の労働運動、国民的運動をめざす次代の画期的な民衆運動創造の過程で、はじめて新たな展望が開かれていく、そんな壮大な課題でもあるのだ。問題は、その目標に向かって、大学の広範な構成員のエネルギーの結集によって、今日のこの時点からどう準備し、態勢を整えていくかである。

 その解答とも言うべきものは、そうたやすく得られるものではないが、人間の社会的生存形態から説き起こし、近代を超克するおおらかな自然循環型共生社会(じねん社会としてのFP複合社会)の構築、すなわち生命系の未来社会論具現化の道を包括的に提起したシリーズ“21世紀の未来社会(全13章)”の中に、多少なりとも手掛かりを見出すことができれば幸いである。

 そして何よりも、この提起をめぐって、まずは大学内から先鞭をつけ、同じ問題を抱えている保育所・幼稚園、小中高校、図書館、医療・介護・福祉等々さまざまな「職場」、さらには全国津々浦々の「地域」における生産と暮らしの現場で、主体的に、広く熱き、だが冷徹な議論がはじまることを願っている。
 大阪大学の今日のこの非常識としか言いようのない、人道に反する深刻な事態とその行方は、日本社会の現実と未来を映し出す鏡そのものである。

3 家族小経営の歴史性と生命力
 ―CFP複合社会展開の鍵を握るセクターFとその未来―

 日本の近現代史に則して振り返ってみればはっきりしてくるように、明治以来、日本資本主義は自己の発展のために、初期の段階から、農村社会の基盤を成す農民家族から娘を紡績女工として引き抜き、また農家の次男・三男を賃金労働者として大量に都市へ連れ出し、農民家族をたえずその犠牲にしてきた。
 そして、戦後においてもある意味では大きく内外の諸条件が好転したものの、その傾向が一貫して貫かれてきたという点では変わりはなく、今日においてもその傾向はますます強まり引き継がれている。

 戦後間もなく農地改革が断行され、地主・小作制は廃止され、土地は農民の手に返ってきたものの、それも束の間、朝鮮戦争の軍事特需を契機に戦後日本の資本主義の復活は急速に進んだ。高度経済成長期の農村からの中・高校生の集団就職をはじめ、恒常的な大都市への労働人口の移動の加速化によって、農村と農業は切り捨てられていった。
 こうして、工業製品の大量輸出、工業用原料と農産物の大量輸入を基調とする今日の大量生産・大量浪費・大量廃棄型の経済の基礎が築かれ、市場原理至上主義アメリカ型「拡大経済」の道を突き進んでいった。

 この歴史的経過の中でおこなわれてきたことは、徹底した分業化と、資本の統合による産業の巨大化であり、これによって農村における農民家族の経営基盤の衰退と、都市における家族機能の空洞化が加速され、その結果、都市のみならず、今日では農村においても家族は危機的状況に晒されている。

 シリーズ“21世紀の未来社会”の第六章「あらためて考える21世紀の未来社会」の1節で述べた「菜園家族」を基調とするCFP複合社会は、世界史的に見れば、18世紀イギリス産業革命以来の一貫した生産の分業化と資本の統合による巨大化の道に歯止めをかけ、さらにその向きを逆転させようとするものである。それは、家族および家族小経営それ自体がもつ人間形成の優れた側面と、小経営そのものに内在するエコロジカルな本質の現代的意義の再評価によるものなのである。

 また、日本の近代史に則して説明するならば、明治初期の日本資本主義形成期の時点に遡り、そこから出発して、日本資本主義が、資本主義セクターCと家族小経営セクターFとのいかなる相互関係のもとに形成されてきたのか、その歴史的過程を十分に検証しつつ、未来にむかってその両者の関係を適正かつ調和のとれたものに組み換え、さらに社会の枠組みを根源的に建て直そうとする壮大な試みでもある。

 しかしそれは、単に昔にそのまま戻るということを求めているのではない。戦後の農地改革以前にあっては、地主・小作関係のもとで、農民家族の大部分は土地を奪われ、地主に小作料を支払わなければならないというきわめて過酷な状態にあり、家族小経営の基盤そのものが脆弱であったのに対して、戦後は農地改革によって、農地は耕作者自らのものとして所有されることになった。
 今後育成される「菜園家族」は、まず、既存の農家から移行する場合、その出発点において既に家族小経営の自立の基盤が用意されているというきわめて有利な点が挙げられる。また、都市からの移住者の場合は、連載「要諦再読―その18―」の2節で述べたように、農地とワークの一体的シェアリングの機能を担う公的「農地バンク」を通じて、必要な農地を保障する制度が整備されることから、いずれの場合も、かつてとは異なり、健全な家族小経営の基盤の上に成立し得る有利な条件を持つことになるのである。

 もう一つの利点は、今日では、明治初期の産業革命当初とは比較にならないほど高度な科学技術の水準にあり、これを自然循環型共生の生産と暮らしのために適正に活用することが可能であれば、セクターFの家族小経営は、はるかに明るい展望のもとに生き生きと甦ってくる可能性が大いにあるということである。
 こうした現代的利点を考えると、「菜園家族」を基調とするこのCFP複合社会は、決して単なる夢、空想などではなく、21世紀をむかえた今、18世紀以来の歴史的経験と今日の現実の発展水準を組み込む時、きわめて現実性のある構想として浮かびあがってくるのである。

 「菜園家族」は、自然の中で大地に直接働きかけ、自己の自由な意志に基づいて自らの暮らしを営み、その成果を直接的に身近に肌で感じ、自己点検と内省を繰り返しながら絶え間なく創意工夫を重ねていく。「菜園家族」は、CFP複合社会の中にあって、人々の自己鍛錬と人間形成の大切な“学校”の役割を担うものである。しかも、家族という小さな基礎的共同体の場で、人々が共に生きるという“共生の精神”を同時に育み、それを土台にして、さらに地域へとその広がりを見せていく可能性がある。

 既に見てきたように、ヒトの「常態化した早産」に起因して、「未熟な新生児」を受け入れ長期にわたって庇護する必要性から、他の哺乳動物には見られない、人間に特有の基底的発達事象「家族」の発生を見ることになる。
 この稀に見る発達事象「家族」を基底に、人間発達の他の3つの事象、すなわち「言語」、「直立二足歩行」、「道具」の発達が相互に密接・有機的に作用し合い、ヒトの脳髄は特異な発達を遂げてきた。

 ここでもう1つ見落としてはならない大切な発達事象として、人類始原のヒトに特有の感性、すなわち原初的「共感能力」が芽生えてきたことをもう一度、再確認しておこう。
 二百数十万年と言われる人類史の大半を占める、長期にわたる原始無階級社会、つまり人類始原の自然状態にあって、ヒトに特有のこの原初的「共感能力」、すなわち他者の痛みや喜怒哀楽を自らのものとして受け止め、共振・共鳴する能力は、緩慢とは言え、徐々に繊細かつ豊かな発達を遂げてきた。
 この原初的「共感能力」は、人間に豊かな感情の発達を促し、他者を思い遣る心情、さらには人間最高の価値としての真・善・美へと発達させ、それらの調和へと到達させていく。そして、数々の倫理規範をも編み出し、ついには普遍的愛へと昇華させていくのである。

 人間が哺乳動物としての属性から抜け出せない限り、そして、人類が科学技術の発達のみではなく、ほんとうに人間精神の進歩を期待するのであれば、この「家族」、そして家族小経営は、おそらく永遠といってもよいほどの長期にわたって、人類史上必要不可欠なものとして存在し続けることであろう。家族小経営セクターFから輩出される新しいタイプの人間群像の如何によって、CFP複合社会の成否と未来への展望は決定される。

 永遠とも思える長期にわたる人間鍛錬の歴史のあかつきには、人間の魂は精神の高みに達し、やがて、「菜園家族」を基調とするCFP複合社会の大多数の人々がその域に達した時に、「欲望原理」を基本に成立する資本主義セクターCは、次第にその存立の根拠を失い衰退し、「共生原理」を基本とする公共的セクターPへの移行は、徐々に、しかもきわめて自然な形ではじまるにちがいない。
 しかも、その後においても、セクターFの家族小経営は、依然として、大地と人間をめぐる物質代謝の悠久の循環の中に融け込むように、人間精神の安定した“よすが”として存在し続けることは間違いないであろう。

 生命系の未来社会論具現化の道であるこの21世紀「菜園家族」社会構想は、人類史における家族小経営の歴史のどの時代にもなかった、そしてこの地球のどの地域にも見られなかった、「自立と共生」の理念にもとづく家族小経営の素晴らしい高みを実現する試みとして、位置づけられるべきものなのである。

2023年7月6日
里山研究庵Nomad
小貫雅男・伊藤恵子

「要諦再読 その20」の引用・参考文献(一部映像作品を含む)
森岡孝二『働きすぎの時代』岩波新書、2005年
森岡孝二『過労死は何を告発しているか ―現代日本の企業と労働』岩波現代文庫、2013年
熊沢誠『リストラとワークシェアリング』岩波新書、2003年
熊沢誠『労働組合運動とはなにか ―絆のある働き方をもとめて』岩波書店、2013年
長坂寿久『オランダモデル ―制度疲労なき成熟社会―』日本経済新聞社、2000年
田中洋子「ドイツにおける時間政策の展開」『日本労働研究雑誌』第619号、2012年
工藤律子『ルポ 雇用なしで生きる―スペイン発「もうひとつの生き方」への挑戦』岩波書店、2016年
ドキュメンタリー番組『事件の涙 ―そして、研究室の一室で~九州大学 ある研究者の死~』NHK総合テレビ、2018年12月28日放送
竹信三恵子・戒能民恵・瀬山紀子 編『官製ワーキングプアの女性たち―あなたを支える人たちのリアル―』岩波ブックレット、2020年
浅倉むつ子『新しい労働世界とジェンダー平等』かもがわ出版、2022年

       ――― ◇ ◇ ―――

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シリーズ“21世紀の未来社会 ―世界的複合危機、混迷の時代を生きる―(全13章)の≪目次一覧≫は、下記リンクのページをご覧ください。
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