命運の岐路に立たされた若者たち ―『きけ わだつみのこえ』、そして今日の学生の苦悶のレポートから ―

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命運の岐路に立たされた若者たち ―『きけ わだつみのこえ』、
そして今日の学生の苦悶のレポートから ―
(2018年9月28日付、PDF:487KB、A4用紙15枚分)

命運の岐路に立たされた若者たち
―『きけ わだつみのこえ』、そして今日の学生の苦悶のレポートから ―

                                      伊藤恵子

はじめに ― 二人の「学徒」の訃報に思う
Ⅰ 大学にも忍び寄る軍事「新大国主義」の影
Ⅱ 学生たちと『きけ わだつみのこえ』を読む
Ⅲ 悩み、逡巡する今日の若者たち ―弱肉強食の競争にまみれて
Ⅳ 「菜園家族」構想と平和主義をめぐって ―学生のレポートから考える
おわりに ―真綿締めの苦悶にもがく今日の若者たち―「未発の可能性」を信じて

はじめに ― 二人の「学徒」の訃報に思う
 今年2018年梅雨の頃、新聞で相次いで2人の訃報が目に留まった。
その1人は、6月7日に101歳で亡くなった日高六郎さん(1917年生まれ)。平和と民主主義について、戦前、戦中の自己の体験にも基づきながら、一人ひとりの人間のレベルからはじまり、社会全体のあるべき姿を展望しつつ深く思索し、戦後の市民運動に取り組んできた社会学者、評論家である。
 日米が開戦した1941年12月8日、東京帝国大学文学部の学生だった。繰り上げ卒業、そして召集という運命が目前に迫り、学生たちには落ち着かない空気が流れていた。しかし教授たちの反応は違った。はっきりけりがついて、さばさばした。暗雲低迷が一時に晴れわたった感じだというのである。町の人々も同様で、どちらでもいいから早く決着をつけてくれ、という気分だったという。
 卒業後、陸軍に入営するが病気除隊。文学部助手となるも、80人ほどいる教授らの中で、1931年からはじまった戦争に対して本当に批判的だったのは、フランス文学の渡辺一夫氏(1901~1975)と言語学の神田盾夫氏(1897~1986)の2人だけであることに、絶望感を抱いていたという。

 自身は、ある程度客観的に先を見通していたし、また一応は日本軍国主義についての批判を持っていたつもりだが、戦争中はほぼ沈黙組だったという。それでも敗戦の数ヵ月前には、海軍技術研究所の嘱託として時局への献言を求められ、現実にとりあげられるはずのないことを百も承知の上で、「国策転換に関する所見」と題する意見書を提出した。報告の場には、一将官とともに、軍に大きな影響力を持つ東京帝大教授が出席していた。国体を重んじる教授は、意見書に真っ向から反対した。恐怖が足もとから身体を貫いた。
 もう1人は、4月8日に97歳で亡くなった江橋慎四郎さん(1920年生まれ)であり、6月30日付朝日新聞夕刊の「惜別」に記事が掲載されていた。1943年10月21日、東京帝国大学文学部2年だった当時、明治神宮外苑競技場で挙行された文部省主催の出陣学徒壮行会において、東条英機首相の訓示後、学徒代表として『生等もとより生還を期せず』との答辞を述べた方である。日本の敗戦が色濃くなった中、兵力動員の切迫から、戦争指導部は学生の徴兵延期制を廃止(理工系・教員養成系を除く)。それまで徴兵を猶予されていた大学・高等学校などの文科系学生・生徒も軍隊に送り込まれることになった。
 答辞に曰く「・・・皇軍将士の善謀勇戦は、よく宿敵米英の勢力を東亜の天地より撃壤払拭し、その東亜侵略の拠点は悉く、我が手中に帰し、大東亜共栄圏の建設はこの確固として磐石の如き基礎の上に着々として進捗せり。然れども、暴虐飽くなき敵米英は今やその厖大なる物資と生産力とを擁し、あらゆる科学力を動員し、我に対して必死の反抗を試み、決戦相次ぐ戦局の様相は日を追って、熾烈の度を加え、事態益々重大なるものあり。(中略)生等今や、見敵必殺の銃剣を提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて悉くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず、在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳の寿きに置かざるべからず。かくの如きは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行する信条なり。生等謹んで宣戦の大召を奉戴し、益々、必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を堅待して決戦場裡に突進し、誓って皇国の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす・・・」と。
 冷たい秋雨の降りしきるこの日、女子学生や家族が見守る中、首都圏の77校が参加し、学徒約2万5千人が行進した。ラジオでも2時間余り実況中継され、激烈なる答辞を聴いた多くの若者が感涙にむせび、「我もまた往かん」という思いに駆られたという。首相演説、送辞、答辞、「海ゆかば」の斉唱まで、政府・軍当局の巧みな演出によって多くの国民が雰囲気に酔い、会場では一部の女子学生が感激のあまり、学徒退場の際、なだれを打って駆け寄ったという。
 これらの光景は、ただモノクロ写真に焼きつけられた遠い過去の出来事なのだろうか。
 1990年代初頭のソ連崩壊後、グローバル市場原理のもと、過酷な競争経済が世界を席捲した。25年あまりが経過した今、その歪みが世界各地で噴出している。グローバル多国籍巨大企業や金融資本に莫大な富が集中する一方で、各地の風土に根ざした人々のささやかな暮らしは破壊されていく。
 その荒波は、開発途上国のみならず、先進工業国自身の国内産業、庶民の暮らしをも容赦なく侵蝕した。企業はコスト競争に勝ち抜くために、人件費抑制からリストラ、不安定雇用への代替を強行し、より安価な労働力を求めて生産拠点の海外移転を進めた。「自由な競争」の名のもとに、巨大企業の活動を利する規制緩和や減税が進められ、大企業は社会的責任を免れ、リーマン・ショック後は、民間企業の倒産に加え、緊縮財政による公的部門の縮小と雇用の劣化、社会保障制度の切り崩しが進んだ。こうして、先進国の多くの人々が、従来の延長線上に約束されていたはずの「豊かな暮らし」から、滑り落ちていったのである。
 その不満と不安から、アメリカ、EU諸国、ロシアをはじめ、世界各地の大衆の間で偏狭な「愛国心」、排他的ナショナリズムが醸成され、これを背景に大衆迎合的な新興政党が台頭し、「強いリーダー」出現の待望と支持が広がりを見せている。2017年1月の「米国第一主義(アメリカ・ファースト)」を掲げるトランプ氏の大統領就任は、こうした世界的傾向の結末的象徴であるとも言えよう。
 わが国も例外ではない。2020年東京オリンピックに向け、巨大なマスメディアによって国民の意識は巧みに誘導され、社会・経済の深刻な矛盾や政治の腐敗は覆い隠され、すべてが正当化されていく。
 1990年代初頭、米ソ二大陣営による冷戦構造が崩壊し、アメリカ単独覇権体制が成立したのも束の間、旧来の伝統的大国に加え、新興大国が入り乱れる新たな地球規模での多元的覇権争奪の時代、すなわち、21世紀型「新大国主義」の台頭とも言うべき新たな歴史的段階を迎えた。またもや性懲りもなく繰り返される諸大国入り乱れての野望。再び戦争の暗雲立ちこめるこの世界に生きる者にとって、1929年世界大恐慌に引き続く先の世界大戦下に青年時代を生きたこの二人の訃報は、複雑な思いに駆られると同時に衝撃的でさえあった。そこから何を汲み取らなければならないのであろうか。

Ⅰ 大学にも忍び寄る軍事「新大国主義」の影
 こうした21世紀世界情勢のまっただ中、大国日本をひそかに夢想するわが国の首相は、財界要人を引き連れ世界各国を歴訪し、国家ぐるみのトップセールスに力を注ぎ市場の拡張をはかり、片や欺瞞の「積極的平和主義」なるものを喧伝誇示する。内に向かっては、国民の声に耳を傾けようともせず、問答無用とばかりに切り捨てる。
 アベノミクスの「経済大国」、「軍事大国」への志向は、まさにこの新たな時代に現れた21世紀型の「新大国主義」とも言うべきその本質が、直截的、具体的に現実世界に投影された姿そのものと見るべきであろう。
 すでに安倍政権は特定秘密保護法を強行採決(2013年12月)し、国家安全保障会議(日本版NSC)の設置(2013年12月)、武器輸出三原則の実質的全面否定(2014年4月)、ODAの他国軍支援解禁(2015年2月)、そして解釈改憲による集団的自衛権の行使容認(2014年7月)と、国民を戦争の惨禍に晒すきわめて危険な体制の総仕上げを急いでいる。
 このようなアベノミクス「積極的平和主義」の動きと連動して、近年、大学においても軍学共同が顕著になってきている。2015年度より防衛省が資金提供する軍事研究公募制度(防衛装備庁所管の安全保障技術研究推進制度)の推進によって、軍産官学複合体の再形成へと誘導されようとしている。研究者からは、基礎研究だから軍事研究ではない、あるいは、デュアルユース技術だからという理由での正当化のみならず、危険な国がある以上、「自衛」のための軍事研究は必要であるという意見すら出てくる。予算額も当初の3億円から年々拡大し、2018年度には101億円にまで膨れあがっている。先の戦時体制下での科学者の軍事研究への動員・協力に対する痛烈な反省から、戦後、長きにわたって忌避してきた軍事・戦争への協力体制に、再び急速に取り込まれていく重大な危機に直面している。
 また、2015年6月には、文部科学省より全86の国立大学に既存の学部などを見直すよう通知が出された。特に教員養成系や文学部、社会学部など人文社会科学系学部と大学院について、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換を求めるものである。自然科学系の研究は「国益」に直接つながる技術革新や産業振興に寄与しているが、人文社会系は「成果」が見えにくいため、国立大学に投入される税金を「見返り」の大きい分野に集中させようという狙いだという。この人文系統廃合の方針は、大学の自治と学問の自由を侵し萎縮させかねない露骨な干渉以外の何ものでもない。政治・社会・文化などへの批判的精神や、歴史的視野あるいは世界的視野をもって物事を深く洞察する力の涵養を軽視し、大学の研究・教育を産業競争力強化のための手段におとしめ、政府・財界の意に適う経済的利潤と軍事大国化への寄与につながる「成果」のみを大学研究に求めようとする意図を孕んでいるものとして、憂慮せざるを得ない。
 そしてついに2015年9月19日未明、国民の声に一切耳を貸そうともせず、安倍政権は数の暴力によって、憲法に真っ向から違反する「戦争法案」を参院本会議で強行採決。さらに昨2017年6月末には、安倍首相は2020年東京オリンピックまでの改憲実現のために、夏のうちに日本国憲法の核心的規定である第九条の骨抜きを狙った「自衛隊明記」の自民党改憲案をまとめ、秋の臨時国会に提出し、2018年の通常国会で「改憲原案」として発議し、12月までに国民投票を行うという日程まで公言するに至ったのである。森友・加計学園問題の紛糾などによりずれ込んではいるものの、2017年10月22日衆院選の「圧勝」を受けて、衆参両院で改憲派が3分の2以上を占めているこの機会を逃すまいと、北朝鮮問題に乗じて、再び改憲の動きを手を変え品を変え執拗に繰り出してくるにちがいない。

Ⅱ 学生たちと『きけ わだつみのこえ』を読む
 戦後まがりなりにも築かれてきた立憲主義と国民主権、平和主義の土台が日に日に根底から突き崩され、暗い時代へと急傾斜を強めていく不気味さと不安を国民の多くも感じはじめている。近頃とみに戦争体験世代と若者世代の意識の乖離が叫ばれている中、これからの時代を生きていくことになる今日の若者たちが、この忌まわしい現実に果たしてどれほどの関心を持ち、わがこととして危機感を抱いているのか気がかりになってきた。
 こうした折、2017、2018年度、立命館大学経済学部の講義「平和の経済学」の中で、1949年に出版された『きけ わだつみのこえ ―日本戦没学生の手記―』を題材にとりあげることにした。戦争が若者をどう巻き込んでいくのか、そして、あの酷薄な条件下において、自分たちと同年代の学徒たちが何を考えていたのか・・・。こうしたことについて、戦後になって時を隔ててからの回想ではなく、まさにその渦中にあって当人たちが綴った心の言葉を直に読むことを通じて接近し、原点に立ち返って、戦争とは何か、平和とは何か、戦後の日本国憲法とは一体何かをともに考える機会を作ろうと考えたのである。
 この「平和の経済学」は、軍事力によらない平和な世界の創造をめざして、そのための土台となる社会経済的基盤の探究を目的に、藤岡惇先生(立命館大学名誉教授)と共同で行っている講義である。私の担当回(全15回のうちの8~10回ほど)では、人間社会の根源的基盤、つまり「家族」と「地域」のあり方から平和の問題と未来社会のあるべき姿を考えようと、これまで研究調査を続けてきたモンゴルの遊牧地域や日本の農山村地域の視点を組み込みつつ講義をすすめている。それは必然的に18世紀イギリス産業革命以来の近代を問い直すことであり、その観点から明治以来の富国強兵路線をかえりみつつ、こうした時代に民衆とともに果敢に奮闘した近代日本の先駆者に学ぼうとするものである。中でも田中正造と内村鑑三の思想的苦闘と実践を取り上げ考察した上で、続く昭和の戦争の時代へとテーマを展開させている。
 こうした中で取り組んだ『きけ わだつみのこえ』であるが、受講生は毎年200~360名ほどであり、そのすべての感想をここで紹介することはできないが、典型的あるいは着目すべきいくつかの意見を軸に、以下、述べていきたいと思う。
 受講生のほとんどが、この本を読むのは初めてである。ややもすると戦争を、勝てば領土や資源を獲得できるゲームのように軽く考えている人すらいる時代である。しかし、授業後の感想カードや講義のまとめとして提出された学生たちのレポートからは、戦闘行為そのものの暴虐性・残忍性のみならず、日常生活を送ってきた普通の人間にそうした行為の遂行を可能ならしめる軍隊組織とはいかなるものなのか、戦争というものがどのようにして社会全体を根こそぎ総動員するのか、いかに未来ある若者の人生とかけがえのない家族の暮らしを破壊するのか、そして、いかに個々人の内面をも容赦なく踏みにじり、思想・信条の自由、人間の尊厳、自尊心をズタズタにし、人間性を破壊するのか、その恐るべき実態を初めて知り、強い衝撃を受けていることが伝わってくる。
 あの時代、国民はもはや「人」としてではなく、大日本帝国という国家を強大にするための「モノ」や「道具」のように扱われており、政府や軍部は人間のいのちを使い捨てしてもよい「消耗品」と考えていたのではないか。どうして日本はここまで追い込まれたのか。何がそうさせたのか。なぜ文系学生なのか。決して殺したいわけでもないのに、なぜ自分と同じように家族がいる他国の兵士を殺すことを強制されねばならないのか。親は自分の息子をどんな気持ちで送り出したのか。なぜ多くの大学までもが加担し、その流れを止めることができなかったのか・・・。現代の学生たちの疑念と憤りは渦巻く。
 1人の男子学生は、レポートにこう綴っている。
 「これが20歳くらいの年齢の人が書くものなのか・・・。戦争最高のような思想教育が若者の命を単に奪っただけでなく、逃げ場を閉ざし、選択肢は死のみという考えを持たされていたのは非常に胸が痛い。・・・渡辺一夫氏の序文で“魂”という言葉が多用されていることに気が付き、“思い”とかいう次元ではもはやなかったのだと感じた。・・・『人間が追いつめられると獣や機械になる』と聞いて普通ならパッとしないが、戦争を考えた場合は別で、・・・人間の思考力が限界に達した時に、このような心境に立たされると思った。」
 『きけ わだつみのこえ』所収の数々の手記の中で、特に学生たちの心に深い印象を残したものの1つが、上村元太さん(1921年生まれ。1942年10月、中央大学経済学部在学中に召集。1945年4月21日、沖縄本島宜野湾方面戦において戦死。享年24歳)の日記である。
 青春、友情と恋愛、学問への情熱、まだまだ山ほど人生がある若者として、ただただ「生きたい」という当たり前の思いから、そして、父と兄の亡き後、弟や妹たちを抱えて生きる母を思うがゆえに、あるいはまた、幼少時から抱いていた軍隊への嫌悪感、学業を通じて確信へと高まった軍国主義の否定、戦争という名の暴力と殺人への強い抵抗感、さらには部下をもって指揮し、より積極的に戦争に加担することを拒否するために、幹部候補生試験に何としてでも落ちることを決意。口頭試問で将校たちを前に、無謀とも言える真正面から大胆に持論を主張し、時局に対し、一青年としての必死の異議申し立て、抵抗を試みるのである。
 ある女子学生は、上村さんが当時「敵性国語」として禁じられていた英語を使って記している言葉に着目する。
 「アメリカについて知れるところでは、徹底的に民主政治を謳歌してやり、・・・生活をエンジョイ(enjoy)するを、人生の目的とする」、「社会で社会人としての pride を持っている者が、(軍隊生活で理不尽に)なぐられたとしたら・・・絶対的な苦痛に等しいときり思われなくなってきている」、「人間の本性として freedom にあこがれるという真実さを、兵営にきて始めて、身にしみて知った。失うまい、何時までもこの美しい心根を」。(『きけ わだつみのこえ』所収の上村元太さんの日記より抜粋)
 学生は、これらは人が生きるための基本である「人権の尊重」を求める痛切な心の叫びであり、中でも自由権と社会権に当たるものだと気づく。そして、上村さんの日記に滲み出ている基本的人権の尊重、民主主義、平和への願いは、まさに戦後の新しい日本国憲法の三原則そのものであることに思い至るのである。
 この3つの柱は、上村さんをはじめ、戦時体制下において青春を踏みにじられた学徒たちが、自由な精神世界、人間性と生命蹂躙の極限の中で何よりも希求していたものであり、新しい憲法は、戦後今日に至るまで改憲をねらう勢力の常套句である「占領軍に押しつけられたもの」では決してないことに気づくのである。それはまた、明治維新以降、富国強兵路線のもと覇権主義的大国への道を邁進した近代日本にあって、たとえ大勢にはなり得ないささやかなものであったとしても、それに抗して確かに続けられてきた「もう1つの道」の模索に連なるものである。自然との共生、非戦・平和、真に民主的な小国日本の可能性を探る、多様なアプローチからの近代超克の思想的苦闘の歴史的水脈は、治安維持法などによって長らく伏流を余儀なくされるものの、この「未発の可能性」は、敗戦を機に、ようやく小さな泉のように再び地上に湧き出たのである。
 前出の男子学生は、レポート後半で次のように綴っている。
 「あれからまだ70年しか経っていないのに、・・・私たちはこの歴史的事実をきちんと理解し、後世に残そうとしているだろうか。・・・憲法の解釈が見直しされているが、悲劇を忘れたのか。・・・亡くなった若者が遺した“魂の想い”を真剣に受け止めなければならない。戦争経験者が減っていく中で、一つの区切りがつこうとしており、これからは私たちが未来と過去をつなぐ役割を担う。・・・これからは、古く間違った大人がいれば、それを正す若者が現れ、それを受け止める大人もでてきて良いと思う。」
 こうして『きけ わだつみのこえ』に触れたことを通じて、学生たちは、日本国憲法が、津々浦々のさまざまな人々の長年にわたる願いの結晶であることをあらためて認識する。そして、自分たちの母校が、戦後早々に末川博氏を学長に迎え、戦中の大学運営のあり方への厳しい反省の上に、「平和と民主主義」の新たな教学理念を確立し再出発したこと、戦没学徒のなげきと怒りともだえを象徴する「わだつみ像」が、朝鮮戦争のさなか行き場を失った時、設置を引き受けたこと(1953年)、社会開放型の総合的な国際平和ミュージアムを開設したこと(1992年)の深い意味と、継承の担い手としての自己の役割を自覚するのである。

Ⅲ 悩み、逡巡する今日の若者たち ―弱肉強食の競争にまみれて
 ところで、私自身、『きけ わだつみのこえ』を読んだ時、今日の学生たちのレポートを読んでいるような気持ちが湧き、いっそう胸を塞いだ。それは、こんなことからである。
 私たち里山研究庵Nomad(主宰 小貫雅男 滋賀県立大学名誉教授)では、モンゴル遊牧地域の調査・研究を長年の間続けながら、並行して日本の農山村の研究に携わってきた。特に2001年からは、琵琶湖に注ぐ犬上川・芹川の最上流域、鈴鹿山中の限界集落・多賀町大君ヶ畑(おじがはた)に拠点を定め、調査・研究に取り組んでいる。その中で、今日のわが国の現実を全一体的(ホリスティツク)に捉え、未来への展望を探究する地域研究の新たな視点と方法を模索しつつ、ささやかながらも21世紀未来社会論の試論として「菜園家族」構想 を提起してきた。
 上記のような思いに駆られたのは、数年前、「平和の経済学」講義でこの「菜園家族」構想について、その骨子となる週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリングや、「菜園家族」を基調とするCFP複合社会、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)の再生などを考察するレポート課題に取り組んでもらった時、卒業を間近に控えた1人の男子学生が率直な心情を吐露し綴っていたこんな言葉が、ふと思い出されたからである。
 「先生の言いたいことは分かります。しかし、この時代、家族を持つことはリスクです。僕は、この競争社会を最後まで1人で勝ち抜く覚悟で社会に出ることを決意しました。」
 概ねこのような主旨のことが書かれてあった。「最後」とはいつなのか。無事に定年退職するまでか、それとも死ぬまでか・・・。何より、一瞬、まるで戦場に出て行くかつての兵士のようではないかと、私には感じられたのである。
 このことはまた、2015年12月、広告大手、電通に入社後1年足らずで過労自殺した高橋まつりさん(当時24歳)をはじめ、近年、相次ぐ若者の過労死・過労自殺の深刻化を想起させる。
 思えば、今、大学に通う学生たちが生まれたのは1998年前後であり、20~30歳の若者たちが物心ついたのは、既にバブル崩壊後、企業の倒産や整理統合、リストラなど働く人々にとって厳しい時代のただ中であった。
 なかんずく、日本経済の長期停滞による国民の不安を背景に、圧倒的な人気で登場した小泉純一郎政権(2001~2006年)は、「構造改革なくして景気回復なし」との歯切れのいいキャッチ・フレーズのもと、グローバル巨大企業や金融資本に有利な規制緩和、法人税等の減税、自由貿易の推進、市町村合併に代表される公共部門の縮小など、自由競争原理を経済・社会のあらゆる分野に押し進め、浅薄な損得勘定の経済論理を貫徹させていった。
 こうした中、2004年の労働者派遣法改正によって派遣労働が製造業分野にも解禁されると、非正規労働者は急激に拡大し、働いているにも関わらず最低限度の生活さえままならない低賃金・不安定雇用を余儀なくされるワーキングプアが、若者層にも増大していった。同時に、少数精鋭に絞られていく正規労働者も、過重な業務・ノルマを抱え込み、過酷な長時間労働、サービス残業を強いられ、年功序列から成果主義へのシフトの中、職場の雰囲気も変わり、相談する仲間さえないままに、過労死、過労自殺へと追い込まれていく。不眠やうつ病が蔓延し、自殺者3万人超の年が続いた(1998年から14年連続)。正規、非正規を問わず、多くの人々がいのち削り、心病む日々に煩悶することになったのである。「ブラック企業」という若者発の造語も、社会的共通語として広まった。
 学生たちの中にも、兄や姉、親戚のおじさん、友人の父親など身近な人々が、実際にこうした状況に苦しんだり、過労死に至ったりした経験を持つ者もいる。
 そして学生自身は、厳しい就職氷河期、書類・面接の選考過程で何十回と落とされるうちに、自尊心を傷つけられ、若者らしい溌剌さや夢を失い、人間不信に陥り引きこもる者さえ出てくる。
 あるいは、先に挙げた男子学生のような悲壮な覚悟で、激烈な競争社会を自分だけは何とかくぐり抜け、生き残ってゆかねばならない。さもなければたちまち社会から脱落し、二度と這い上がれない奈落の底に落ちてしまう、という強迫観念に常に苛まれている。こうした心情は、単に利己的な動機からだけではなく、親や兄弟姉妹に心配をかけまい、経済的負担をかけまい、自立しなければ、という気持ちからもさらに強まっていく。為政者や企業経営者は盛んに、「努力した者が報われる社会に」と言っている。逆に言えば、正社員として就職できない「負け組」は、その人が努力しなかったせいなのだ。とにかく自分が頑張らなければ・・・。不満を言ってはいられない。代わりはいくらでもいるのだから。こうして大人の言う「自己責任論」に、若者自身の思考が縛られていく。
 働く者をこのような苦境に追い込んでいる経済・社会の構造の理解、その根源的な変革に目が向けられることはないまま、不条理を飲み込み、理不尽を我慢し、ひたすら個人の努力で抜けきろうとするのである。そのあまりにも不確実で頼りない一縷の望みは、「蜘蛛の糸」のように、いつかは自分の手の一寸上でプッツリと切れるかも知れないのに・・・。
 若者たちにとって、このような「自己責任論」受容の素地は、子供時代から受験競争を通じて形づくられ、思った以上に強固に深層心理に植え付けられている。そして、「団結」とか「連帯」によってともに職場や社会をあるべき姿に変えていこうとする理念も、経験も、また既存の組織への信頼もなく、いよいよ孤立と分断は深まっていくばかりである。
 現代の若者は男女問わず、従順な「企業戦士」に仕立てあげられた挙げ句、グローバル化する資本主義の終わりなき市場競争、経済戦争の中で、巨大なピラミッド構造の最末端の「消耗品」、「捨て駒」にされ、犠牲を強いられているのではないか。
 高橋まつりさんの母・美幸さんは、電通本社で開かれた管理職向けの研修会で、「長時間労働やパワハラで命をなくしたり追い詰められたり、病気になる人が多い・・・。軍隊のような社風をなくして下さい。」と訴えている(2017年4月13日付朝日新聞記事)。
 戦時体制下の学徒たちの悲痛な叫びが、別の形であるとはいえ、今日の若者の苦悩と重なって感じられてくる。『きけ わだつみのこえ』の序文で渡辺一夫氏は、「・・・若い生命のある人間として、また夢多かるべき青年として、また十分な理性を育てられた学徒として、不合理を合理として認め、嫌なことをすきなことと思い、不自然を自然と考えねばならぬように強いられ、縛りつけられ、追いこまれた時に、発した叫び声が聞かれるのである。・・・それがいかに勇ましい乃至潔い言葉で綴ってあっても、悲痛で暗澹としている。」と述べているが、今日の若者の声なき声は、まさに「追いつめられた若い魂」が人間の解放を求めるうめき声ではないか。

Ⅳ 「菜園家族」構想と平和主義をめぐって ―学生のレポートから考える
 こうした視点を学生たちに投げかけ、21世紀未来社会構想としての「菜園家族」構想を提起したところ、以下のような意見がレポートに綴られていた。
 「サラリーマン達は社畜と呼ばれ残業手当も出ず働かされ、それに耐えられなくなった者は自殺し、人生の窮地に追い込まれているのが現状だ。誰かの下で強制的に働かされ自分を見失い、自分の運命を決められてしまう社会など存在してはいけないと思う。『菜園家族』構想は、それを根本的に改善することができると考える。それはこの構想が、日本社会が抱える諸問題を表面的に解決するのではなく、問題の原点から変えていくものであるからだ。」
 「『きけ わだつみのこえ』には、現在の自分に生かせる精神、教訓が数えきれないほどある。上村元太さんは日記の中で、“しかも、われは現実にはにくむべき日本軍部の中の最細の構成分子となっている一兵士なのだ。”と自らを嘆いているが、高橋まつりさんもまた、その誠実で真面目な人柄を逆手に取られ、現代の企業社会の“最細の構成分子”とならざるを得なかったのではないか。市場競争では、勝つ者はいいのかもしれないが、負けた方は、金銭的にも精神的にも大きな傷を負ってしまう。『菜園家族』構想は、こうした状況への最良の処方箋であると考える。この構想では、根なし草同然となった現代賃金労働者(サラリーマン)に、週休(2+α)日制の独自のワークシェアリングを通じて、従来型の雇用労働を分かちあった上で、生きるに最低限必要な生産手段(農地、生産用具、家屋など)を取り戻し、家族を抗市場免疫の優れた体質に変革していく。これは、良好な地球環境への道を大きく開くものでもある。アメリカのトランプ大統領がパリ協定への離脱を表明し、地球温暖化防止に向けた世界的な潮流を断とうとしている中、わが国がこの構想を取り入れれば、低炭素社会をめざす世界の旗振り役に躍り出るであろう。また、『菜園家族』が社会の多勢を占めれば、熾烈な市場競争は次第に社会の深部から自律的に抑制され、戦争への参加をとどまらせる。このような『菜園家族』的平和主義は、日本国憲法の趣旨に合致し、国民の幸せをより確実なものにする構想であると考える。」
 「週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリングによって、現在問題になっている過労の問題の解決や、ストレス社会からの解放などが実現されると考えられる。それだけではない。地域密着型のこの構想は、食糧自給率の向上や、少子化、高齢者の独り身問題など、少子高齢化が進む現代日本の抱える最も大きな問題さえも改善しうる可能性すらある。平和の経済学として学んだ『菜園家族』的考え方が、平和だけでなく、現代日本のあらゆる問題を解決に向かわせることを考えると面白い。確かにこの構想は本来の人間の豊かさを取り戻させてくれるものだと思うが、大量生産・大量消費が当たり前の資本主義の中で、傲慢な人間が『菜園家族』的な考えに移り変わるのはとても難しい。その現在の暮らしを変えたくないと考える人も大勢いるだろう。実のところを言うと、自分も少しそう思ってしまうところもある。しかし、それでも、人間が未来に向かって生きていくには必要なことであって、人間が歩むべき道だと考える。」
 こうした積極的な意見が出される一方で、「菜園家族」構想、あるいはそれに限らず、資本主義を克服し、自然と調和し、人々がともに支え合って生きる新たな理念に基づく社会のあり方の可能性について議論する時、就職活動をはじめた学生からは、「それでは経済が回らない。高度経済成長以来築きあげてきた日本の産業力は衰退し、国際競争に負けてしまう」とか、「大学にいるうちはそれでいいかもしれないが、ビジネスマンとして社会でやっていくには、それでは通じない」という本音もこぼれる。地球にやさしく、格差のない「持続可能な経済社会」は、所詮タテマエにすぎないということか。
 就職協定の廃止(1998年3月卒業者以降)後、学生たちの「就活」はとみに長期化・複雑化し、学生生活に大きな影響を及ぼすようになった。近年、その弊害の是正から就職活動の解禁が一時期に比べ後ろ倒しされているが、企業が進めるインターンシップ制度によって、かえって学生たちはより早期から動き出すこととなり、日本や世界が今どのような問題に直面しているかを学び、自分なりのアプローチで研究し、考えを深めていくよりも前に、企業社会の論理と価値観がより早く、より深く学生たちの意識に食い込んでくるのである。
 自分が安定した大企業に就職できるように、「経済の好循環」の実現、従来型の拡大経済の持続、景気回復、さらなる経済成長を望む。そのための「骨太の」成長戦略を描いてくれているらしい「アベノミクス」支持へとつながっていく。
 「雇用は改善した」、「株価は上がった」・・・。労働者個々の生活実感は以前にも増して苦しくなっているにもかかわらず、都合よく操作された一面的な情報に囲まれ、真実を知らされないまま、いわばかつての「大本営発表」まがいの報道に幻惑されているのかも知れない。「成長の果実を地方の隅々にまで行き渡らせる」という実現するはずもない首相の言葉に、「欲しがりません勝つまでは」さながらの心境で、「そのうちきっと・・・」と望みを託す。「強いニッポン」、「美しい国」の復活をめざしてやってくれている政権を批判することは、自分の現在と将来の幸せを妨害することであり、為政者に未来をお任せする心情は、時に、政権批判者への憎悪にさえなる。
 そして、マスメディアを通じて増幅される北朝鮮の核開発や中国の経済・軍事大国化の脅威を背景に、より激しい内容、表現の以下のような意見も出てくる。
 「経済力が衰退すれば、日本の国際競争力と地位は低下し、戦力を保持しなければ、他国から侮られ、狙われやすい国となり、攻撃または侵略されてしまう。日米同盟、アメリカの核抑止力は不可欠である。国益を守るために、日本自身も軍事力を増強し、いっそう経済大国になっていかなければならない。憲法改正は必要だ。」
 歴史の時計の針を19世紀後半を起点とする帝国主義時代まで巻き戻したような、こうした「力による支配」の思考方法は、戦後70年を経た今、一部の学生にとどまるものではなくなっているのではないか。実際、直近の共同通信による世論調査(2018年9月20、21両日実施)でも、秋の臨時国会への自民党改憲案の提出に「賛成」が35.7%、「反対」が51.0%、「分からない・無回答」が13.3%となっている。「反対」が上回っているとは言え、ほぼ半数のところにまで後退してしまったことに、むしろ危機感を覚えざるを得ない。
 この小文の冒頭で触れた日高六郎氏は、1980年に刊行された著書『戦後思想を考える』(岩波新書)で次のように述べている。
 「戦後の日本の経済復興の要因は複雑である。・・・戦前のそれら(産業、技術、政治、教育)の水準は――他の先進帝国主義国と同じように――植民地保有と、とくに日本の場合、軍国主義的な侵略政策のうえにきずかれていた。そしていままた、日本のアジアその他への経済進出は、現地の民族的な産業を破壊しながらの経済侵略の要素を持っていることは否定できない。・・・それがアジアの眼にどううつるか。・・・かつて植民地主義を遂行した人間が、いま日本の政治的指導者となっているが、彼らが抑圧され差別され続けてきた植民地国の民衆の苦痛を理解するはずはない。またそうした政治指導者をえらんできた日本国民の責任もまぬがれまい。そしてその責任とは、やはり私たちの大半が、かつての植民地国の民衆の苦痛を、8・15を通過してさえ、なおほとんど理解していないということと無関係ではないと思う。」(同書所収の「私のなかの『戦争』」より抜粋)
 21世紀の現代も、まったく同じではないか。アジア・アフリカ・ラテンアメリカで進められる、外国からの投資や「援助」に依存した地下鉱物資源開発や鉄道・高速道路など巨大インフラ建設偏重の政策によって、直接間接にささやかな暮らしを破壊され、故郷を追われゆく小さき人々の悲しみを知る人はあまりにも少ない。そして、こうした経済構造が、同時に先進国の私たち自身の労働と生活をもその基盤から掘り崩し、やがては自らの人生さえも狂わすことになりかねないものであることを明確につかんでいる人もまた少ない。
 「日本を、取り戻す」道の行き着く先に、かつての出陣学徒壮行会の国民的熱狂が頭をよぎる。戦後日本の平和主義、民主主義とは一体何だったのか、厳しく問われなければならない。
 『きけ わだつみのこえ』所収のあとがき「この本の新しい読者のために」で、小田切秀雄氏(文芸評論家・近代文学研究者、1916~2000)はこう述べている。
 「日常的な目先の、または自分だけの生活にかまけているうちに、いつのまにか、戦争体制がつくられてしまい、戦争がはじまってからは、もはや、やめさせることがいちじるしく困難になり、結局まきこまれて、自己の生命をむなしく失わされてしまう ――こういう経過は、すでに、この『きけ わだつみのこえ』の時期の学生たちによっても、痛切にあかしだてられているとおりなのだ。」
 このあとがきは、岸信介内閣のもとで、日米安保条約改定の準備が進められていた1959年10月に書かれた文章である。それから約60年後、孫の安倍晋三内閣のもと、解釈改憲による集団的自衛権の行使容認、日米軍事同盟のさらなる強化、九条の明文改憲へと突き進む現在にあって、小田切氏の「・・・核武装をはじめとする軍備のいっそうの巨大化、それによる収奪の激化、憲法改悪、徴兵制、また機密保護法、新警職法などによる民主的権利の封殺・・・。これらは国際緊張をはげしくし、戦争の危険を増大させる。すべてこれらの動向は、今日の若い世代にとっては、やがて彼ら自身に最も重くのしかかってくるはずのものであり、したがって、かれらこそ最も強く関心が向けられねばならぬ性質のことである。」という言葉は、痛烈に響いてくる。だからこそ私たちは、「・・・過去の諸経験の記録の検討を通してそれを思想化(経験を思想にまで高める、という意味での思想化)していく」(小田切氏)不断の努力を続けなければならないのである。
 日本国憲法の前文および第九条(戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認)に凝縮されているのは、憎しみと暴力の連鎖を自らが先頭に立って断ち切る決意の表明と、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」し、全世界の人々が「ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する」ことができるよう、ともにこの崇高な理想を達成していこうとする誓いである。それは、日本に生きる私たちのめざす目標であるとともに、アジアをはじめ世界の人々への宣言でもあったはずである。
 『きけ わだつみのこえ』の序文の中で渡辺一夫氏は、暴力は人間としての弱さであり、「この恥ずべき弱さを、人間に強いるのが戦争であり、一切の暴力運動である。」と述べている。強大な軍事力は、決して「強さ」の象徴ではない。学生たちは感想カードに、「戦争で解決するような弱さから抜け出し、平和な世界になれるように、私ができることを考えていきたい。」「当時の学徒たちなら、声を荒げながら訴えるだろう。」と書いている。こうした素朴な原点をあらためて思い起こすべきではないだろうか。

おわりに ―真綿締めの苦悶にもがく今日の若者たち―「未発の可能性」を信じて
 戦後70年を経た今、果たして日本国憲法の理念は、本当に私たち一人ひとりの心の奥に深く根づき、日常普段の暮らしに具現化されているのであろうか。
 敗戦後まもなく、反戦平和と民主主義、文化国日本の建設をめざし、全国津々浦々で国民的運動が湧き起こった。それは、都市部の労働者、知識層・学生のみならず、農地解放の結果、多くの自作農が誕生した農村においても、新しい息吹の中、生産、暮らし、教育、青年の学習会、演劇や音楽といった文化・芸術など、多種多様な分野で小グループが生まれ、子供から大人まで生き生きと活動した。戦地から辛うじて生還することができた学徒たちの中には、小・中・高校等の教師となり、新生日本を担っていく主体の育成をめざして、自らの村や町で民主主義教育や地域の学習運動に力を注いだ人も少なくない。
 しかし、こうした草の根民主主義の高揚は、朝鮮戦争(1950~)による軍事特需を契機に徐々に復活を遂げていった戦後日本資本主義の発展過程、特に高度経済成長を通じて次第に衰えていったのである。物質的な「豊かさ」の実現とともに、人々の関心は私的な欲求の充足、快適さの追求のみに狭められ、社会全体のあるべき姿、平和や民主主義などを真剣に考えようとする気運はしぼんでいった。
 そして、今や従来型の経済成長路線は行き詰まった。積年の歪んだ産業政策によって、わが国の経済構造は根底から奇形化を余儀なくされ、農林漁業は衰退し、現在なおその延長線上にあって、産業・人口の東京一極集中が進むばかりである。国土構造の「体質」は脆弱となり、農山漁村でも、地方中小都市でも、巨大都市でも、仕事のあり方、少子高齢化、地域コミュニティの空洞化、子育て・教育・介護、エネルギーや環境問題、さらには自然災害の脅威などに苦しんでいる。社会の土台の根っこから腐敗が進行し、社会そのものの劣化は極限に達している。
 こうした中、先にも触れたように、私たちの多くが正規・非正規、老若男女を問わず、不安に苛まれて生きている。今一度初心にかえり、日本国憲法の理念に則って、そのもとで誰もがひとりの人間として尊重され、生きていけるような社会をどう築き上げていくのか、その根源的で確かな展望が何よりも求められているのである。
 たとえ消費拡大によるうわべだけの「景気の好循環」を演出できたとしても、結局それは、資源の有限性・地球環境保全とのジレンマに陥るとともに、地球規模での終わりなき資源・エネルギーの開発競争と商品市場の獲得競争は、やがて対立・紛争を誘発するだけである。際限なき資本の自己増殖運動の果てに、覇権争奪の「新大国主義」の新たな歴史段階に突入した今日の世界にあって、今、真に求められているのは、経済の行き詰まりをさらなる経済成長によって解消する道、すなわち、従来型の「拡大経済」を前提とした、各国支配層による欲深い「商取引」パワーゲームの根底にある卑俗な思考に惑わされることなく、足もとの地域から生産と暮らしのあり方を見つめ直すことではないか。そして、まったく別次元から、素朴で精神性豊かな生活世界と揺るぎない平和を下支えする基盤をいかに私たち自身の暮らしの根っこに築き上げていくのか、その方途を考えることではないのか。つまりそれは、日本国憲法の理念 ―「平和主義」、「基本的人権(生存権を含む)の尊重」、「主権在民」― を生産と暮らしにどう生かし、どう具現化するか、私たち自身が自らの頭で探ることである。
 今、世界ではグローバル経済化が加速的に進行する中で、多くの民衆が生活基盤を切り崩され、先行きの見えない日々に苛立っている。冒頭で触れた先進諸国に顕在化している大衆の不満を背景にした排他的志向も、結局、その真の原因を突き止め、耐えがたい閉塞感を根源から打開する新たな指針、つまり、従来の19世紀未来社会論に代わる新たな展望と理論の不在にも遠因があると言えるのではないだろうか。21世紀にふさわしい未来社会論の探究こそが、私たち世界の民衆に課せられた、緊急にして避けられない共通の課題となっているのである。
 戦時体制下、自由な読書さえ許されない非人間的な軍隊生活の中でも、来たるべき新しい明日を信じ、本を1ページずつ千切って見つからぬよう便所の中で読んでは、細かく切り刻んで捨て、そうまでして自らの思想形成の努力を惜しまず続け、生きる希望をつなげていた学徒も存在したという。ソ連型社会主義体制の崩壊後、この混沌とした海図なき世界にあって、生きる希望となる21世紀にふさわしい私たち自身の新たな未来社会論とは一体どのようなものであるのかを、今私たちが置かれている社会の現実から出発して、一人ひとりが自らの頭で考え、自らの言葉で自由に語り合い、創造していくことが切実に求められている所以である。
 限られた学生のレポートから言えることではあるが、たとえ今日、若者たちが日夜体制側からの一方的な情報の洪水に晒されていたとしても、得体の知れない頑迷固陋な権威主義に囚われることなく、自由闊達な議論の場、そして自由奔放に思索をめぐらす場さえ、わずかなりとも得られるものならば、かつて『きけ わだつみのこえ』の学徒たちが命がけで苦闘したように、今日の若者たちもきっと真綿締めの苦悶に耐え、若さの特権とも言うべき自己の「未発の可能性」を存分に発揮するにちがいない。個々人のレベルにおいても、組織や制度のレベルにおいても、こうした若者たちにはだかる古色蒼然たる分厚い壁をせめても取り除くことが、それをつくりあげてきた大人たち自らの責務ではないのか。これこそが今日、若者たちとともに手を携えて生きるということの本当の意味であろう。
 残念ながら今日では、この分厚い壁が個々人のレベルにおいても、既存のあらゆる組織や制度においても、頑として立ちはだかっている。奇妙なことに今日の若者たちは、一見華やかで自由に見える社会にありながら、実のところ内面では、かつての時代とは全く別次元で異質の、しかも人間の温もりから隔絶された陰湿で冷ややかな独房としか譬えようのない新たな苦難の中に、大なり小なり放置されたままなのである。
 戦没学徒の無念の思いを胸に、戦後新生日本のあり方を真剣に考え、都市や農村でひたむきに行動した数々の若き「魂」に思いを馳せ、私たちは今日の若者たちとともに悩み苦しみながら、21世紀の明日を切り拓いていきたいと思うのである。日本国憲法の原精神を揺るがす重大な岐路に立たされた今、それが、『きけ わだつみのこえ』の学徒たちの願いを本当の意味で生かすことではないか。
 「平和の経済学」の講義および、その感想カードとレポートを通じた学生たちとの対話の中で、格別の思いでこのことの重大さにあらためて気づかされた。この10年間、授業の中で「菜園家族」構想に触れ、真摯に考えようとした学生たちそれぞれは、卒業後、実社会の中で何を経験し、何を考え、生きているのであろうか。労働と生活の現実をふまえて、果たしてどんな率直な意見の交流が生まれるであろうか。期待と不安のはざまで夢見ている。

「菜園家族」構想についての詳細は、拙著『グローバル市場原理に抗する 静かなるレボリューション ―自然循環型共生社会への道―』(小貫雅男・ 伊藤恵子 著、御茶の水書房、A5判369頁、2013年)をご一読ください。
 なお、上記小文の主旨を補完するために、ぜひ拙著『菜園家族レボリューション ―日本国憲法、究極の具現化―』(小貫雅男・ 伊藤恵子 著、本の泉社、A5判160頁、2018年2月3日発行)をお読みいただければ幸いです。

<引用・参考文献>
日高六郎『戦後思想を考える』岩波新書、1980年
杉山光信 編『日高六郎セレクション』岩波現代文庫、2011年
黒川 創『日高六郎・95歳のポルトレ ―対話をとおして』新宿書房、2012年
藤岡 惇「帰りなん、いざ豊饒の大地と海に ―“平和なエコエコノミー”の創造・再論―」『立命館
 経済学』第65巻特別号13、立命館大学経済学会、2016年9月
日本戦没学生記念会 編『新版 きけ わだつみのこえ ―日本戦没学生の手記』岩波文庫、1995年
宗廣鮎美「心の中で今も生き続けている兄」『中央評論』263号(特集「戦争を生きた先輩たち ―
 いま後輩へ伝えたいこと」)、中央大学出版部、2008年5月
森岡孝二『過労死は何を告発しているか ―現代日本の企業と労働―』岩波現代文庫、2013年
高田雅士「1950年代前半における『知識人と民衆』―国民的歴史学運動指導者奥田修三の『自己
 変革』経験から―」『歴史学研究』970号、歴史学研究会 編集、績文堂出版、2018年5月

                               2018年9月28日

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