『菜園家族の思想』へのご感想(久島恒知さん・その1)

 昨2016年末、久島恒知さん(千葉県柏市在住)から、拙著『菜園家族の思想 ―甦る小国主義日本―』(かもがわ出版、2016年10月刊)へのご感想が届きました。
 久島さんのご紹介と合わせて、2回に分けて掲載させていただきます。

◆久島恒知さんのご紹介◆
 久島恒知さん(元 映像プロダクション・プロデューサー)は、今から25年前、ヨーグルトのルーツを辿る映像作品の制作のために、モンゴル遊牧地域とブルガリアを現地取材されました。
 そのご縁で、私たちのドキュメンタリー映像作品『四季・遊牧』の制作と上映活動を一貫してサポートしていただくことになり、以来、長きにわたってご交流が続いています。
 久島さんは、数年前、ある難病を発症し入院。プロダクションを後進に引き継ぎ、家庭菜園などで健康維持につとめられてきました。
 そんな折、2011年3月11日の東日本大震災が発生。久島さんは、思い立って、原発事故で避難を余儀なくされた福島県浪江町の方々のもとを訪ねはじめます。
 映画好きの久島さんらしく、編み出した独自の交流・支援の方法は、出前映画館。仮設住宅(福島市)の集会所におばちゃんたちと集い、「浪江キネマ」と銘打って、小津安二郎監督の『東京物語』、山田洋次監督の『小さいおうち』、高倉健主演の『鉄道員(ぽっぽや)』、吉永小百合主演の『北の零年』などの名作や、ご自身制作のドキュメンタリー映画『じゃあ、また来週!』を共に鑑賞することによって、お互いの境遇や胸の奥の思いを自ずと打ち解けて語り合える、そんな場を作ってこられたのです。
 この間、入退院を繰り返しつつも、月1度のペースで、車に映写機材を積み、こつこつと通い続けて6年。活動の様子をその都度、文に綴った通信レポート『僕とオバチャンと浪江町』は、今や50号に達し、分厚いファイル2冊分にもなっています。
 愛する家族を失い、ふるさとを離れて不安の中で暮らす浪江のおばちゃんたちにとって、すっかり心強い「仲間」になられています。

以下に、久島さんのご感想(その1)を掲載します。

『菜園家族の思想 ―甦る小国主義日本―』を読んで

久島 恒知(映像プロデューサー)

(その1)

 
 『菜園家族の思想』を読ませて頂きました。
 と言うより、ノートをとりながら、また他の本をひっくり返しながら学習をさせて頂きました。
 この本で、ケインズ革命から新自由主義、その延長線上の小泉構造改革やアベノミクス、またその間に挟まる田中角栄の日本列島改造論などが、一連の流れとして、またどのような因果関係で変遷してきたかが良く分かりました。
 このおさらいと、マルクス経済学の簡単な理解がないと、本題の「菜園家族」構想がよく理解出来ないので、行きつ戻りつの読書学習となってしまいました。

 そうしてみると、生産手段と賃金労働者の再結合、現代賃金労働者と農民の人格的融合ということが、いかに新しい考え方であるか、また、マルクス未来社会論の欠陥を生産手段の共有に基づく共同管理だとして、小さな生産手段(菜園など)との再結合を賃金労働者に求めていることは画期的な着目だと分かります。
 高校生のとき「日本の農民は私有の土地を持ち続けたい訳だから、労働者階級とは相入れないよな。と言うことは革命勢力ではないってことか?何か変だな?」などと大真面目に話していたことを可笑しく思い出しました。(しかしこの幼稚な疑問は良い着眼点だったかもしれないと思いました。)

 この本に書かれていることは、ある意味で先生の「第一回・集大成理論」のように思いました。情緒的な記述部分は残しているものの、殆どは未来を切り拓く社会理論書となっていますから、そのように思いました。
 また、断定的に論じているところが多くあるのは、理論書ですから当然のことだと思いました。
 しかし、高校のとき政経の先生は「本は、疑ってみて、ホントにそうなのか?と読んでいかないと、理解したことにはならないんだよ」と口癖のように話していて、ですから『菜園家族…』もホントにそうなのか?と読んでいきました。
 本当にこんな風にCFP複合社会が成立して来るのかどうかは、恐らく僕が生きている間には分からないはずですが、先生が以前から仰っていた「海図なき世界」に海図を示されたのですから、本書は未来への贈り物でもあると思います。
 本書に書かれていることは、一つ一つが「なるほど、そうなのか。必然的にこんな風になっていくのか」という海図でした。

 ひとつ立ち止まったところは、時々記述されていた「…民主的政府が成立することによって本格的に進展していく」「国や自治体が本気になって位置づけることが出来るかどうかにかかっている」「新しく出来る民主的政府のもとで…はずである」というあたりでした。
 政府や自治体というところにこの構想の成否がかかっているかのように読めて(先生の考えは、そうではないかもしれませんが)、これが必要条件になれば、「菜園家族」構想は夢物語になるのではと思いました。
 但しこれは僕が前後の文脈を充分に読み取れていないために、このような印象を抱いたということかも知れませんが。

 この場合、民主的政府とはどのようなものをイメージすれば良いのでしょうか。
 確かに上部構造・下部構造ということはあるのでしょうから、現在の“政府・自治体”と同じイメージで政府・自治体を考えてはいけないのでしょうが、本当に民主的な政府などというものは絶対出来ないだろうと僕は思っているので、そこにあまり大きな期待をしなくても「菜園家族」構想や、そこへ至る社会の萌芽が生まれる道筋はないかなあと考えながら読んでいました。

 議会制民主主義をとり続ける限り(これが独裁を防ぐ最も良い制度と思います)、利害が異なり、相反する勢力は永遠にあり続けると思いますし(CFPのCの割合が縮小しても)、その中で政府に求められる最良の役割というのは、せいぜいそこを調整共存させる程度のことだと思います。そうでなければ、永遠に権力奪取の戦いが続くだけだと思います。
 また、物欲や競争心から逃れることが出来る人間と、逃れられない人間は永遠に居続けると僕は思いますし、人間は理性や理念では統一されない不完全なものだと思っていますので、利害が反する勢力同士は絶えることがないと思うのです。
 CFP複合社会、FP複合社会というのも、社会環境の条件が整えば「到達出来る」ものと考えるのではなく、人の世はいつも「過程」で「無常」だと考えて、ですから常に不備は発生することを大前提にして、その都度改良していくという論法の方が、僕には納得しやすいと感じました。
 しかも先生は「上からの統治」を徹底的に批判されていますので、「…民主的政府が成立することによって…」を「社会が『菜園家族』構想に近づけたとすれば、時の政府は民主的と言える」と読み替えていくと、すんなりと納得出来たのですが。(その2に続く)