連載「希望の明日へ―個別具体の中のリアルな真実―」エピローグ(その2)

新企画連載
希望の明日へ
―個別具体の中のリアルな真実―

エピローグ 分かちあいの世界へ(その2)

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連載「希望の明日へ―個別具体の中のリアルな真実―」
エピローグ 分かちあいの世界へ(その2)
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ベージュの地に緑・黄緑・薄茶・黒色の葉っぱ

まことの「自立と共生」をめざして
 天才的喜劇役者であり、20世紀最大の映画監督であるチャップリンは、映画『モダン・タイムス』(1936年)のなかで何を描こうとしたのでしょうか。今あらためて考えさせられます。
 1929年にニューヨークから発した世界大恐慌のさなか、冷酷無惨な資本主義のメカニズムによって掃き捨てられ、ズタズタにされる労働者の姿を、チャップリンは臆することなく、時代の最大の課題として真っ向から受け止めました。

 ラストシーンは、この映画の圧巻です。使い古された雑巾のように捨てられ、放心状態のチャップリン扮する労働者が、非情の都会に浮浪する少女とともに、喧騒の大都会を背に、丘を越え、前方に広がる田園風景のなかへと消えていきます。
 このシーンは、90年が経った今なお、21世紀の人類に行くべき道を暗示しているかのようです。社会の底辺に生きる人間へのあたたかい視線と、慧眼としか言いようのない未来への洞察力に、ただただ驚嘆するばかりです。

 近年、次々に飛び出してきては世に流布する新語。パート、フリーター、派遣労働、非正規労働者、請負会社。どれひとつとっても、新たな装いを凝らしてはいるものの、これほど人間を愚弄し、家畜同然、機械の部品同然におとしめる代物(しろもの)はありません。

 ある財界のリーダーは、こうした不安定労働者の現実について、マスメディアの質問に答えて、臆せず語ります。「経済効率のためには、そして熾烈な国際競争に勝ち抜くためには、それは必要なのですよ」と。さらなる質問にも、「人間の尊厳と言うけれども、私は、競争によって選りすぐられた優秀な人間のみを大切にすることを経営の信条にしているのです」と言って憚(はばか)らないのです。

 それでは、切り捨てられ、見捨てられた者は、人間ではないとでも言うのでしょうか。これが、今日の日本の経営者、権力的支配層の本音であり、「常識」なのです。いつのまにか人びともそう思い込まされ、ついには、国民の「常識」にまですりかえられてしまいました。人類が自然権の承認から出発し、数世紀にわたって、鋭意かちとってきた自由・平等・友愛の精神からは、はるかに遠いところにまで後退したと言わざるを得ません。

オリオン座 暗黒星雲(馬頭星雲)

 こうしたギスギスした社会が、結局、何をもたらすかは、もうはっきりしてきたのではないでしょうか。
 市場競争至上主義の行き着く先は、2001年9・11のニューヨーク世界貿易センタービルの崩落であり、その後に続く石油利権をめぐるイラク戦争です。日本国内では、非正規雇用、不安定労働者や失業者の増大であり、不眠症・うつ病など「心の病」の蔓延であり、自殺者年間3万数千人の現状であり、果てには、財政効率化の大義のもと、教育や学問や医療や福祉の領域にまで競争原理を持ち込み、農業の規模拡大化によって、小さな農家を切り捨てようとする現実です。

 ようやく「小泉マジック」から醒(さ)め、第1次安倍政権への国民の不満と批判の声が高まるなか、2007年7月29日、参院選での自民党の惨敗。強引なまでの安倍首相(当時)の続投、その後まもない突然の政権放り出し・・・。
 慌ただしく後を継いだ福田康夫首相は、自らの内閣を「背水の陣内閣」と銘打って、中断国会を再開し、所信表明演説に漕ぎ着けます。そして、その「むすび」で「自立と共生の社会に向けて」と題して、こう力説するのでした。
 「『自立と共生』・・・・・・の先に、若者が明日に希望を持ち、お年寄りが安心できる、『希望と安心』の国があるものと私は信じます。激しい時代の潮流を、国民の皆様方とともに乗り越え、・・・・・・持てる力のすべてを傾けて、取り組んでまいる所存であります」

 「自立と共生」を語ることは、まことに結構です。その方向に努力することには、何の異存もありません。
 「自立と共生」。このことばを誰が先に言い出したかなどと取り沙汰されたようですが、それは、いかにも瑣末で意味のない議論です。今、問われているのは、「自立と共生」の内実であり、それを実現していくにはどのようにすべきなのか、その方法なのです。

 「自立と共生」は、人類が長きにわたる苦闘の歴史の末に到達した、崇高な理念である「自由・平等・友愛」から導き出される概念であり、その凝縮され、集約された表現である、と言ってもいいものです。それは人類の崇高な理念であり、目標であるとともに、突き詰めていけば、そこには「個」と「共生」という二律背反のジレンマが内在していることに気づきます。

 あらゆる生物がそうであるように、人間はひとりでは生きていけません。
 人間は、できる限り自立しようとそれぞれが努力しながらも、なお互いに支えあい、助けあい、分かちあい、補いあいながら、いのちをつないでいます。
 「個」は「個」でありながら、今このときも、また時間軸を加えても、「個」のみでは存在しえないという宿命を人間は背負っているのです。それゆえに、人類の歴史は、個我の自由な発展と、他者との共生という、2つの相反(あいはん)する命題を調和させ、同時に解決できるような方途を探り続けてきた歴史であるとも言えるのではないでしょうか。

 私たち人類は、その歴史のなかで、あるときは「個」に重きを置き、またあるときはその行き過ぎを補正しようとして「共生」に傾くというように、「個」と「共生」の間を揺れ動いてきました。
 この「自立と共生」という人類に課せられた難題を、どのような道筋で、どのように具現するかを示すことなく、このことばを呪文のように繰り返しているだけでは、空語を語るに等しいと言われても、致し方ないでしょう。

 生きる自立の基盤があってはじめて、人間は自立することが可能なのであり、本当の意味での「共生」への条件が備わるのです。
 人間から生きる自立の基盤を奪い、その上、最低限必要な社会保障をも削って放置しておきながら、その同じ口から「自立と共生」を説くとしたならば、それは、二重にも三重にも自己を偽り、他を欺(あざむ)くことになるのではないでしょうか。

北欧の住宅アパート

 ところで、本連載で極めて大切な歴史認識の問題として指摘してきたように、人類は、18世紀イギリス産業革命以来、二百数十年の長きにわたって、農地や生産用具など生産手段を奪われ、生きる自立の基盤を失い、ついには根なし草同然の存在となってしまいました。つまり、亡霊の如く執拗に甦ってきた「高次の奴隷」身分です。

 19世紀「社会主義」理論は、生産手段の社会的な規模での共同所有によって、資本主義のこの矛盾を克服しようとします。しかし、20世紀の実践過程において、人びとを解放するどころか、かえって「個」と自由は抑圧され、「共生」は上から強制され、独裁強権的な中央集権化の道を辿り、壮大な理想への実験に挫折しました。
 そして、いまだにその挫折の本当の原因を突き止めることができず、19世紀「社会主義」理論に代わる、21世紀の新たなる未来社会論を見出せないまま、人類は海図なき時代に生きているのです。

 21世紀の今もなお、私たちの社会は、大量につくり出された根なし草同然の人間によって埋め尽くされたままです。
 生きる自立の基盤を失い、根なし草同然の人間が増大すればするほど、当然のことながら市場原理至上主義の競争原理が蔓延し、不信と憎悪が助長され、互いに支えあい、分かちあい、助けあう精神は衰退します。そしてそれは、個々人の間にとどまらず、社会制度全般にまで波及していきます。

 生きる自立の基盤を奪われ、本来の「自助」力を発揮できない人間によって埋め尽くされた社会にあって、なお私たちが「共生」を実現しようとするならば、社会負担はますます増大し、年金、医療、介護、育児、教育、障害者福祉、生活保護などの社会保障制度が財政面から破綻するほかありません。それが、日本社会の直面する今日の実態です。

 この事態を避けるために考えられる方法は、財政支出の無駄をなくすか、税収を増やす以外にありません。しかし、急速な少子高齢化のなかで、財政の組み替えや節減だけでは、もはやどうにもならないところにまで来ています。

 一方、「新経済成長戦略」などという触れ込みで、万が一、「経済のパイ」を大きくし、法人からの税の増収をはかることができたとしても、この「拡大経済」路線そのものが、本質的に地球環境問題と真っ向から対立せざるをえません。
 「環境技術」の開発によって、地球環境問題は解決できると期待する向きもあるようですが、それは幻想に過ぎず、一時の気休めに終わるのではないでしょうか。なぜなら、第2章で述べたように、浪費が美徳の「拡大経済」の根底にある市場競争至上主義の思想そのものを変えない限り、「環境技術」開発による新たな生産体系そのものが、新たな法外な「環境ビジネス」を生み出し、資源やエネルギーの消費削減どころか、21世紀型のさらなる新種の「拡大経済」へと姿を変えるだけにならざるをえないからです。

 また、グローバル経済を前提にする限り、市場競争は際限なく熾烈を極めていきます。「国際競争に生き残るために」という口実のもとに、企業はますます社会的負担を免れようとし、結局その負担を、庶民への増税として押しつけてくるのです。
 したがって、自立の基盤を奪われ、「自助」力を失い、根なし草同然に生きる現代賃金労働者(サラリーマン)家族を基礎単位に構成される、今日の社会の仕組みをそのままにしておいて、「自立と共生」を語ること自体が、もはや許されない時代になってきていることに気づかなければなりません。

「菜園家族」構想こそ「自立と共生」具現化の唯一残された道
 この連載では、こうした時代認識にもとづいて、人類共通の崇高な理念であり、目標でもある「自立と共生」という命題に内在する二律背反のジレンマをいかにして克服し、その理念をいかにして具現することが可能なのか、その方法と道筋を具体的に考えてきました。
 生産手段を奪われ、根なし草同然の社会的存在となった現代賃金労働者(サラリーマン)が、失った生産手段(自足限度の小農地、生産用具、家屋など)との「再結合」を果たすことによって、賃金労働者と農民という二重化された新しい人間の社会的生存形態、すなわち週休(2+α)日制のワークシェアリング(但し1≦α≦4)による「菜園家族」として生まれ変わる。つまり、「菜園家族」構想は、これまでには見られなかった新しい人間群像の誕生と新しい社会の到来を想定しているのです。

アンドロメダ座 系外銀河

 そこでは、相対的に「自立」した「菜園家族」を構成する人間が、自然生的な地域団粒構造の特性ともいうべき相互補完システムのもとで、自ずと支えあい、分かちあい、助けあうことになります。このようにしてはじめて、「自立と共生」は、空言ではなく、具体的に現実のものになっていきます。
 こうした社会的条件のもとで、これまでに考えられなかったまったく新しい理念にもとづいて、財政破綻を招くことのない、「自助」との調和のとれた新たな「公助」(社会保障制度)の誕生が期待されるでしょう。

 「菜園家族」構想は、18世紀イギリス産業革命以来長きにわたって、私たちのものの見方・考え方を支配してきた認識の枠組み、つまり、私たちが長い間拘泥してきたパラダイムを根底から覆すことによってはじめて、成立し得るものであるといってもいいのです。

 一国の首相が、公の場から所信表明の形で、国民に向かって「自立と共生」をとにもかくにも語らなければならなかったのは、裏を返せば、そうでも言わなければ国民の不満と怒りはどうにもおさまらないところにまで来ている、ということの証(あかし)でもあります。
 それはまた、私たちの社会それ自体が底知れぬ構造的矛盾を抱え込み、解決不能の事態に陥っていることを物語っています。

 この社会の底知れぬ構造的矛盾に正面から向きあい、大胆にメスを入れ、今日の社会の枠組みを根本から転換することなしに、「自立と共生」を説くとすれば、それは、大多数の国民に、自立の基盤を保障せずに社会保障をも削減し、自助努力のみを強制するための、単なる口実に終わらざるをえないのではないでしょうか。
 どんな政権が新たに登場しようとも、社会のこの根本矛盾、つまり生産手段を奪われ、根なし草同然になった人間の社会的生存形態を放置しておく限り、ほんものの「自立と共生」の実現への具体的かつ包括的な道は、見出すことはできません。そうした政権は、遅かれ早かれ、国民からそのウソを見抜かれ、見放されるほかないでしょう。

 今日まで私たちが思い込まされてきたすべての「常識」は、おそらくこのままあり続けることはないでしょう。今や日本は、そして世界は、大転換期を迎えつつあります。

朝の琵琶湖(2023.12.3)
朝の琵琶湖

 人は、明日があるから、今日を生きるのです。
 失望と混迷のなかから、21世紀、人びとはきっと、人類始原の自由と平等と友愛の自然状態を夢見て、素朴な精神世界への壮大な回帰と止揚(レボリューション)と、人間復活の道を歩みはじめるにちがいありません。

 里山研究庵Nomadと“菜園家族 山の学校”は、時代の大きな逆流に阻まれながらも、この壮大な歴史の胎動の一端を担う長い道のりのスタートラインに何とか立ちたいと、模索し続けています。先人たちの未来への鋭い洞察力と、いのちへの限りなき慈しみの心に学びながら、森と琵琶湖を結ぶ流域地域圏(エリア)の最奥の地から、21世紀世界を展望していきたいと願っています。

 2024年元旦に発生した能登半島大震災。過疎高齢・少子化に苦しむ辺境の地が、大君ヶ畑集落に限らず、全国津々浦々に無数に散在していることにあらためて気づかされました。この国土構造の致命的な欠陥を放置しておけば、どんな悲惨な事態を招くことになるのかを身にしみて思い知らされたのです。
 台湾有事などと外国の脅威を煽り、莫大な軍事予算をそそくさと決め込み、着々と軍事大国の道を進む腐り切った政権。本当にそれでいいのか、今こそ真剣に議論すべき時に来ています。
 もっとも必要とされているのは、民衆自身の力量の涵養であり、主体性の確立なのです。

 最後に、ドキュメンタリー映像作品『四季・遊牧 ―ツェルゲルの人々―』 のエンディングから次の詩(ことば)を引用して、未来に夢をつなぎたいと思います。

 それがどんな「国家」であろうとも
 この「地域」の願いを
 圧(お)し潰(つぶ)すことはできない。

 歴史がどんなに人間の思考を
 顛倒(てんとう)させようとも
 人々の思いを
 圧し潰すことはできない。

   人が大地に生きる限り。

 春の日差しが
 人々の思いが
 やがて根雪を溶かし
 「地域」の1つ1つが花開き
 この地球を覆い尽くすとき
 世界は変わる。

   人が大地に生きる限り。

このドキュメンタリー映像作品『四季・遊牧 ―ツェルゲルの人々―』(小貫雅男・伊藤恵子共同制作、三部作全六巻・7時間40分、大日、1998年)は、東西冷戦の終結、ソ連社会主義体制の崩壊、市場経済への移行という激動期のただ中、1992年秋からモンゴル山岳・砂漠の村ツェルゲルで行われた1年間の住込み調査に基づき、四季折々の自然とそこに生きる遊牧民の暮らし、地域再生の模索を描いている。
  そのダイジェスト版(前編・後編 各1時間40分)をYou Tubeに公開中。
  前編 https://youtu.be/8ckpvZv3blc
  後編 https://youtu.be/8WR0TCZd7O0

エピローグ(その2)の引用・参考文献(映像作品)
映画『モダン・タイムス』チャールズ・チャップリン 監督(1時間28分)、1936年
映画『独裁者』チャールズ・チャップリン 監督(2時間05分)、1940年

       ――― ◇ ◇ ―――

新企画連載「希望の明日へ ―個別具体の中のリアルな真実―」の掲載にあたっては、明らかな誤字・脱字・舌足らずな表現の類い等の若干の訂正以外は、原典『菜園家族21』(コモンズ、2008年)が出版された15年前の時点でのこの地域の実情をそのまま忠実に再現し伝えることを期して、統計資料、地図、文中の統計数字、関連する諸研究の成果などについては、改変を加えることなく、出版当時の通り、そのまま原典から収録することにしました。

2024年3月8日
里山研究庵Nomad
小貫雅男・伊藤恵子

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