“シリーズ21世紀の未来社会(全13章)”の要諦再読―その5―

“シリーズ21世紀の未来社会(全13章)”の
要諦再読 ―その5 ―

資本の自己増殖運動と麻痺する「共感能力」
―人間欲望の際限なき拡大―

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要諦再読 ―その5―
“資本の自己増殖運動と麻痺する「共感能力」”
(PDF:585KB、A4用紙9枚分)

ドラゴン(銅版画調)

 生命系の未来社会論具現化の道である「菜園家族」社会構想による日本社会は、結局、縮小再生産へと向かい、じり貧状態へと陥っていくのではないか、という危惧の念を一般に抱きがちであるが、果たしてそうなのであろうか。
 この「要諦再読―その5―」、および次回の「―その6―」では、この危惧と、生命史上稀に見る、人類始原の自然状態以来の、人間特有の感性とも言うべき原初的「共感能力」の問題を念頭に置きながら、話を進めていきたい。

 戦後わが国は、科学技術という知的資産を最大限に活用して産業を発展させ、高い経済成長をもって国際経済への寄与を果たすとする、「科学技術立国」なるものをめざしてきたし、これからもめざそうとしている。しかし、はたして私たちは、これを手放しで喜ぶことができるのであろうか。

 科学技術は市場原理と手を結ぶやいなや、人間の無意識下の欲望を際限なく掻き立て、煽り、一挙に暴走をはじめ、ついには計り知れない惨禍をもたらす。2011年3・11フクシマ原発苛酷事故は、その象徴的な事件であった。科学技術はいつの間にか本来の使命から逸脱し、経済成長の梃子の役割を一方的に担わされる運命を辿ることになったのである。

 「菜園家族」社会構想では、労働の主体としての人間の社会的生存形態に着目し、何よりもまずそれ自体の変革を通じて、未来のあるべき社会の姿を提起しているのであるが、ここでは、労働と表裏一体の関係にある資本の側面、とりわけ資本の自己増殖運動と、それに触発される人間欲望の問題を科学技術との関連で考えていきたい。

 つまり、「菜園家族」という新たな人間の社会的生存形態の創出が、資本の自己増殖運動の歴史的性格と、その制約のもとで歪められてきた科学技術にいかなる変革をもたらすことになるのか。そして、「菜園家族」の創出によって、資本の自己増殖運動の欲望原理のもとで衰退しつつある、人類始原以来の人間に特有の原初的「共感能力」をどのように復活・成熟させていくことが可能性なのか。このこととの関わりで、未来社会はどのように展望されるのか、少なくともその糸口だけでも見出したいと思う。

資本の自己増殖運動と科学技術
 さて資本とは、自己増殖する価値の運動体である。できるだけ多くの剰余価値を生み出し、その剰余価値の内からできるだけ多くの部分を資本に転化して旧資本に追加し、絶えずより多くの新たな剰余価値を生産しようとする。資本は、市場の熾烈な競争の場において自己の存立を維持するために、絶えず生産規模を拡張し、生産力を発展させていかなければならない。それは、資本の蓄積によってのみ可能である。こうして、蓄積のための蓄積、生産のための生産の拡大が至上命令となる。

 結局、資本の所有者は、諸々の資本の運動が織りなす資本主義社会の客観的メカニズムによって、価値増殖の「狂信者」にならざるをえない。こうして、絶えず剰余価値は資本に転化され、社会的再生産の規模が拡張されていく。こうした価値の自己増殖運動の中で、技術は大きな役割を担うことになり、それがかえって資本に対して従属的な性格を強めていくことになる。

 技術とは、もともと歴史的に見るならば、人間が自己と自己につながる身近な人間の生存を維持するために生まれたものであり、食べ物を採取したり獲物を捕るための労働や、農耕、牧畜、漁撈に必要な技術がその基本であった。身体を守り暖を取るための衣服や住まいの技術、そして病を治す医療の技術も不可欠だった。
 人間の活動が広がるにつれて技術は多様化し、地域地域の風土に根づいた、人間の身の丈にあった技術の実に緩やかな発展が見られた。これこそが本源的な技術である。

 しかし、どこかの時点から技術は自然と人間から急速に乖離し、次第に精密化・複雑化・巨大化の道を辿り、自然、そして人間とは対立関係に転化していった。その分岐点は、世界史的に見れば、イギリス産業革命の進展によって、石炭エネルギーによる機械制大工業が確立した19世紀20年代初頭と見るべきであろう。

 特に現代においては、経済成長を成し遂げるには、労働力や資本以上に技術が果たす役割が以前のいかなる時代にも増して重要になり、技術的優位性が国内外の市場での競争力強化と超過利潤獲得のもっとも重要な要因となっている。
 19世紀以前においては、技術者・技能工の接触や移民によって、経験や勘からなる技術・技能が比較的容易に移転したのに対して、技術が科学との結びつきを強め、抽象的かつ複雑高度になるにつれて、また、資本の集中の進行によって技術独占が強固になるにつれて、技術開発や技術移転は、組織的計画的活動なしには困難になっていく。

 こうして、科学技術はますます巨大資本に集中し、独占されていく。そして科学技術者は、このような状況下の資本の自己増殖運動の中で、決定的に大きな役割を演じさせられ、ついには資本の僕(しもべ)の地位にまで貶められていく。

資本の従属的地位に転落した科学技術がもたらしたもの ―人間の「共感能力」の衰退
 人類始原の石斧など実に素朴な技術からはじまり、精密化・複雑化・巨大化した現代の「高度」な科学技術体系に至るまで、人類の二百数十万年の歴史からすれば、産業革命からわずか二百数十年という瞬くほどのあっという間に、私たちは原発という不気味な妖怪の出没を可能ならしめた。
 それを可能にしたのは、まさに資本の自己増殖をエンジンに駆動する飽くなき市場競争であり、今日の新自由主義的、市場原理至上主義「拡大経済」である。

 こうして現代の科学技術は、ますます資本の自己増殖運動の奉仕者としての役割を担わされていく。
 鉄道、自動車、航空等による輸送・運輸は超高速化するとともに、量的拡大を続ける。都市には超高層ビルが林立し、地下鉄は地中深く幾層にも張りめぐらされる。上下水道、電気、ガス、冷暖房施設等のインフラが整備され、通信・情報ネットワークも急成長を遂げ、パソコン、携帯電話、スマートフォン、タブレット端末等々の普及・利用は著しい。

 さらには昨今の急速な情報のデジタル化、人工知能(AI)開発への野望、世界覇権の命運をかけた5G(第5世代移動通信システム)をめぐる米中二超大国間の熾烈な技術開発競争。開発の「フロンティア」は、海底に、そして宇宙に際限なく拡大していく。
 一方、DNAレベルの解析や量子力学など極小世界の研究と、それらを応用したバイオテクノロジーやナノテクノロジーやマイクロマシンなど新規技術、製品開発もいよいよ進む。科学・技術の対象は、極大と極小の両方向にとめどもなく進化していく。

 商品開発の資金力、技術力、それにメディアを利用する力は巨大企業に独占される。最先端の科学的知見と技術の粋を動員して、新奇な商品の開発に邁進したり、些細なモデルチェンジをひたすら繰り返し、使いこなせないほどの多機能化をはかったりするのと同時に、テレビのコマーシャルや新聞・雑誌・インターネットなどの広告によって、人間の好奇心や欲望を商業主義的に絶えず煽り、強引に需要をつくり出していく。

 企業の莫大な資金力によって築き上げられた情報・宣伝の巨大な網の目の中で、人々は知らず知らずのうちに、浪費があたかも美徳であるかのように刷り込まれ、大量生産、大量浪費、大量廃棄型のライフスタイルはいよいよ助長されていく。
 人間は、自然から隔離された狭隘な人工的でバーチャルな私的享楽の世界にますます幽閉され、野性を失い、他者を思い遣るきわめて人間的な、人類始原以来の稀に見る貴重な原初的「共感能力」は次第に麻痺し、病的とも言える異常な発達を遂げていく。それが快適な生活で幸福な暮らしだと思い込まされている。

需給のコマを絶えず回転させなければ成立しない資本主義の宿命
 欲望を煽られても買わなければいい、と言われるかもしれない。ある面ではそうかもしれない。しかし、消費者は同時に企業の労働者であり、企業が窮地に陥れば、企業の労働者である消費者も同じ運命にあるという「悪因縁の連鎖」の中にあることも事実である。この新自由主義的、市場原理至上主義「拡大経済」の社会のほとんどすべての人々は、この「悪因縁の連鎖」につながっているのである。
 しかも、消費も生産もともに絶え間なく拡大させ、その需給のコマを絶えず円滑に回転させなければ不況に陥るという宿命にある。こうした社会にあっては、浪費は美徳として社会的にも定着していかざるをえない。

 現代の私たちは、あまりにも忙しい暮らしを強いられている。目的に至るプロセスの妙を愉しむ余裕など、すべて切り捨てられてしまった。コマネズミのように働かされ、効率と時間短縮ばかりを余儀なくされ、目先の利便性だけを求めざるを得ないところに絶えず追い込まれている。
 その結果、こうした忙しい人々のニーズに応えるかのように、多種多様な、しかも莫大な数量の出来合いの選択肢が街中に安値で氾濫し、私たちは仕掛けられた目に見えないこの巨大で不思議な仕組みの中で、ただただ狼狽し目移りしながら、追われるように買い求めていく。
 こうして、人々は他者を顧みる余裕すら失い、人間にとって何よりも大切な人類始原以来の原初的「共感能力」は阻害され、衰退していく。果てには、我利我利亡者が幅を利かせる社会、そして世界に成り果てていく。これは、決して大袈裟な話ではないのである。

 エネルギーと原材料の大量浪費、その行き着く先の大量廃棄を前提とする市場原理至上主義「拡大経済」は、地球環境や地域の自然に不可逆的な損傷を与えている。そして、人間の物質生活のみならず、精神さえも歪め荒廃させていく。
 科学技術は、このように経済社会システムに照応する形で発達を遂げ、今や危機的状況を迎えている。科学技術には、紛れもなく経済社会システムの矛盾が投影されているのである。

 そして、ついに現代科学技術は原子核にまで手をかけ、世界でもっともシンプルでもっとも美しいと言われているアインシュタインの数式E=mc(エネルギーE、質量m、光速c)どおりに、自然から実に人為的に途方もなく巨大な核エネルギーを引き出し、実用化に成功したかのように見えた。
 しかし、天の火を盗んだ人間界にゼウスが持たせ寄越したパンドラの箱はついに開けられ、収拾不能の事態に陥ってしまったのである。際限のない資本の自己増殖運動がもたらした現代科学技術のこの恐るべきあまりにも悲惨な結末に、私たち現代人はどう向き合い、どうすべきかが今、問われている。

経済成長至上主義の破綻 ―GDPの内実を問う
 「快適さ」や「利便性」や「スピード」への人間の飽くなき欲求。私たちはこれまで、巨大資本の広告の氾濫の中で欲望や好奇心を煽られ、モノを買わされてきた。こうした「つくり出された需要」を絶えず生み出すために、科学技術は動員され、歪められてきた。それが巨大な商品であればあるほど実に大がかりに、しかも組織的に行われていく。

 私たちの身の回りにあるもので、はたして自分の生存にとって本当に必要なものはどれだけあるのであろうか。それどころか、自らの手でモノをつくり出す力を奪われ、何よりも人間の身体を、そして精神をどれだけ傷つけ損なってきたことか。

 無理矢理「つくり出された需要」によって、需要と供給の円環を絶えず回すことで、経済は好転すると信じられてきた。そして、この虚しい需要と供給の回転ゴマを絶えず回すために、イノベーションと称して科学技術は実にけなげに奉仕させられてきたのである。資本の自己増殖が自己目的化され、科学技術は、市場競争至上主義のこの本末転倒の経済思想によって、組織的でしかも大がかりな魔術にかけられ、猛進してきたのではなかったのか。

 こうして市場に氾濫する商品の中には、程度は様々ではあるが、人間の生存にとって本当に必要かどうか疑わしいもの、それどころか危害や害悪すら及ぼすものも少なくない。
 リニア新幹線などますます超高速化する運輸手段しかり。首都圏直下型地震の危機迫る中でも、人口分散の発想とは全く逆に、2020年東京オリンピックを梃子に、再開発によってなおも人口集中を促す超巨大都市しかり。莫大な資金を投じ、子どもじみた好奇心を煽り騒ぎ立て、人寄せする東京スカイツリーは、さしずめその象徴か。

 2025年大阪・関西万博と絡めて、成長の起爆剤として構想されている、人間の欲望を際限なく煽るカジノ中核の統合型リゾート(IR)しかり。高速鉄道、巨大空港・港湾施設、未来都市スマート・シティ等々、巨大パッケージ型インフラしかり。新型コロナウイルス・パンデミックに便乗し、さらに拍車をかけられるデジタル社会化しかり。
 いったん事故が起これば、空間的にも、時間的にも、社会的にも、計算不可能な無限大の被害を及ぼす危険きわまりない原発しかり。果てには、人間を殺傷する巨大武器体系(陸上の軍事基地施設から海、空、宇宙空間にも及ぶ)など、愚の骨頂である。

 例を挙げれば、身の回りの雑多な商品から巨大商品まで枚挙にいとまがない。まさにこれら膨大な商品の堆積物は、資本の自己増殖運動の落とし子そのものなのである。そこに、人類始原以来の、他の動物には見られない、人間特有のきわめて貴重な「共感能力」衰退の結末をまざまざと見る思いがする。

 こうして見てくると、1年間に生産された財やサービスの付加価値の総額を国内総生産(GDP)とするその内実は、様々な疑問や問題点を孕んでいることになる。
 GDPには、人間にとって無駄なもの、不必要なものどころか、人間に危害や害悪すら及ぼすもの、自然環境の破壊につながる経済活動や、人のいのちを殺傷する武器生産など、これら生産活動から生み出される莫大な付加価値も含まれていると見なければならない。しかも近年、その比重がますます高まる傾向にある。

 その上、サービス部門の付加価値の総額は、一貫して増大の傾向にあり、とりわけ金融・保険および不動産部門については、アメリカをはじめ西欧、日本など先進資本主義国では、GDPに占めるこの割合をますます増大させている。
 一般的に、サービス部門の付加価値総額の増大の根源的な原因には、歴史的には、まぎれもなく直接生産者と生産手段との分離にはじまる、きめ細やかな家族機能の著しい衰退がある。金融・保険および不動産部門の付加価値総額のGDPに占める割合の急激な増大の背景には、金融資本の経済全般への君臨・支配とその跳梁が透けて見える。そこには、実体経済への撹乱とやがて陥る社会の壊滅的危機への影を見て取ることができる。

 さらに注視すべきことは、GDPには個人の市場外的な自給のための生活資料の生産や、たとえば、家庭内における家事・育児・介護などの市場外的なサービス労働、非営利的なボランティア活動等々、それに非商品の私的な文化・芸術活動などによって新たに生み出される価値は、反映されていない。
 今後、グローバル市場競争がますます激化していけば、こうした商品・貨幣経済外の非市場的で私的な労働や生産活動が生み出す多様で豊かな計り知れない膨大な価値は、いつの間にか狭隘な経済思想のもとに、強引にしかも大がかりにますます排除されていくのではないかと憂慮せざるを得ない。

 このように考えてくるならば、経済成長のメルクマールとされてきたこれまでのGDPに基づく成長率には、もはや前向きで積極的な意義を見出すことができないのではないか。それどころか、皮肉にもある意味では、市場原理至上主義「拡大経済」社会という名の、いわば人間のからだの内部に発症した癌細胞の増殖と転移の進み具合を示す指標としての意味しか持ちえないことにもなりかねないのである。

社会的「共感能力」の衰退がもたらす究極の結末
 現代巨大社会のこうした暗澹たるメカニズムを背景に、人間性の本質を成す、他者を思い遣る繊細な「共感能力」は麻痺、衰退、消滅へと向かっていく。その結果は、はっきりしている。
 世界に誇る日本国憲法前文、および第九条の核心的精神「非武装・非戦、非同盟・中立、世界平和」をかなぐり捨て、いよいよ戦争の道へと突き進むとでも言うのであろうか。今度こそは、人類そのものの破滅である。

 ここでまず、「戦争放棄」に関連して、日本国憲法の条文を素直に読み直し、確認しておきたい。
       ――― * ―――

日本国憲法(1947年5月3日施行)

前文(抜粋)
 日本国民は、(中略)政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
 (中略)
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 (中略)
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

第二章 戦争の放棄(全文)

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
       ――― * ―――

 こうしてあらためて日本国憲法を素直に読みさえすれば、如何なる場合においても、武力の保持、国権の発動たる戦争を放棄していることは明白である。
 まさに今、議論されているわが国の大軍拡、大増税の騒動が、如何にこの憲法の精神から逸脱、後退し、その根本理念を完全に蹂躙するにまで至ったか、愕然とさせられるであろう。

 「自衛」のためならば、武力の保持と行使は許される。これが、歴代自民党政権の身勝手な憲法解釈である。
 すべての人間が生まれながらにして持っているとされる自然権としての自衛権と、国権の発動たる軍隊の戦力の行使による「自衛」とは、日本国憲法のもとでは、本来、峻別されなければならないものである。この両者を決して混同してはならない。

 憲法第九条で戦力の不保持が明確に規定されている以上、たとえ「自衛」の名においても、「専守防衛」であっても、国権の発動たる戦力の行使はそもそもあり得ないのである。これが、わが国憲法第九条の規定する非武装・非戦の内実である。

 自民党政権は、狡猾にも、戦後長きにわたって、憲法第九条違反の既成事実を積み重ね、「自衛」のためならば、武力の保持と行使は許されるという意識を、一貫して国民に植え付けてきた。
 多くの国民も、この欺瞞の手口にすっかり麻痺させられ、「専守防衛」なら、武力の保持と行使は平和で安心だと思い込まされてしまったようだ。 それをいいことに、今や国会では、この最高規範からはるかに逸脱したところで平然と議論がなされる、驚くべき事態にまで至っている。

 わが国の権力的政治家は、国民に向かっても、国際社会に向かっても、「法の支配」なる言葉を他者に対しては、押し付けがましく好んで強調するが、自国の最高規範を自ら蹂躙しておきながら、その矛盾を何とも感じないのであろうか。そこに権力者の欺瞞の根深さをまざまざと見る思いがする。
 戦後長きにわたり憲法違反の既成事実を積み重ね、拡張してきた事態そのものに対して、そして、将来起きるであろうその悲惨な結末に対して、どう責任を取るというのであろうか。「あとは野となれ山となれ」なのか。

 権力的政治家たちのごもっともらしい大義名分にそそのかされて、日米軍事同盟のもと、国民もろとも民衆同士が殺し合う実に凄惨で、何とも愚かとしか言いようのない“戦争”へと突き進んでいく。これが今日のわが国の偽らざる実態なのだ。
 私たちは、この現実から決して目を逸らしてはならない。

 欧米諸大国と日本の権力的為政者たちは、「民主主義対権威主義の価値観の戦い」などと嘯(うそぶ)き、自己正当化しようとしているが、それこそ身のほどをわきまえない、とんでもない論点のすり替えであり、恐るべき欺瞞である。
 人類を破滅へと追い遣りかねない新帝国主義とも言うべき米中超大国、および露、日、西欧諸大国間の今日の醜い多元的覇権抗争は、本質的には、資本の自己増殖運動に連動しつつ、地球規模での社会的「共感能力」の衰退がもたらした究極の結末なのである。

 一昨日3月16日から17日にかけて、尹錫悦(ユン・ソンニヨル)韓国大統領を東京に招いて、日韓首脳会談が久しぶりに開かれた。夕食会後の2次会では、銀座の老舗洋食店で大統領思い出の味オムライスでもてなし、権力者同士の友好ムードを演出。「岸田首相の握手には、一気に春を迎えたかのような趣があった」と新聞等で報じられた。
 果たしてそうなのであろうか。むしろこれを機に、台湾有事を念頭に、米日韓の軍事同盟は実質的にさらなる強化が図られ、東アジア地域世界の民衆に、いっそう深く分断と対立のくさびが打ち込まれることになるに違いない。
 こうした政治的権力者同士の企みに、強い警戒心を抱かざるを得ない。これは過去の“戦争の歴史”から学んだ貴重な教訓でもある。

 私たち日本国民は、まさに今、世界に誇る日本国憲法の核心的理念を自ら捨て、軍拡大増税、そして民衆同士の殺し合いの道へと突き進むのか、それとも大地に根ざした精神性豊かな、夢あふれるおおらかな生活世界を足元から築き、新たな未来への先鞭をつけていくのか、この2つの道の重大な岐路に立たされている。

日本国憲法第九条のもとでの「自衛」をどう考えるかについては、シリーズ“21世紀の未来社会”(全13章)の第十一章「『菜園家族的平和主義』の構築 ―いのちの思想を現実の世界へ―https://www.satoken-nomad.com/archives/1981、とりわけ2節「今断罪されるべきは、長きにわたる姑息な解釈改憲による既成事実の積み重ねそのもの」、および3節「非同盟・中立の自然循環型共生の暮らしと平和の国づくり」をお読みいただきたい。

2023年3月18日
里山研究庵Nomad
小貫雅男・伊藤恵子

       ――― ◇ ◇ ―――

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