“シリーズ21世紀の未来社会(全13章)”の要諦再読―その6―

“シリーズ21世紀の未来社会(全13章)”の
要諦再読 ―その6 ―

人間の「共感能力」の復権と非戦・平和の礎
―地域に築く抗市場免疫のライフスタイル―

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要諦再読 ―その6―
“人間の「共感能力」の復権と非戦・平和の礎”
(PDF:545KB、A4用紙8枚分)

雲から顔を覗かせる太陽(銅版画調)

 既に見てきたように、ヒトの「常態化した早産」が原因となって、「未熟な新生児」を受け入れ、長期にわたって庇護する必要性から、他の哺乳動物には見られない、人間に独特の発達事象「家族」の発生を見ることになる。
 この稀に見る「家族」を基底に、人間発達の他の3つの事象「言語」、「直立二足歩行」、「道具」が相互に作用し合い、ヒトの脳髄は特異な発達を遂げてきた。

 ここでもう1つ見落としてはならない大切な発達事象として、人類始原のヒトに特有の感性、すなわち原初的「共感能力」が芽生えてきたことをここで再確認しておきたい。
 二百数十万年と言われる人類史の大半を占める、長期にわたる原始的無階級社会、つまり人類始原の自然状態にあっては、ヒトに特有のこの原初的「共感能力」、すなわち他者の痛み、他者の喜怒哀楽を自らのものとして受け止め、共振・共鳴する能力は、緩慢とは言え、徐々に繊細かつ豊かな発達を遂げてきたと言えよう。

 しかし、「道具」の発達に伴って生産力が発展するにつれ、個々人の労働によって生み出される剰余価値の収奪が可能になると、人間による人間の「規制・統制・支配」がますます強化されていく。それに従って、長い時間をかけ、着実にゆっくり発達してきたヒトに特有のこの原初的「共感能力」は、次第に揺らぎはじめる。
 特に18世紀イギリス産業革命に象徴される近代以降、資本主義の発達に伴って、人間の欲望は際限なく拡大し、人々は狭隘な利己的関心へと走り、分断されていく。
 こうして、人類始原のヒトのこの原初的「共感能力」の発達は阻害されていった。

 21世紀の今日、新自由主義的資本の自己増殖運動は、人間欲望の飽くなき拡大へと拍車をかけ、弱肉強食の熾烈なグローバル市場競争至上主義の荒波は、世界のあらゆる地域を席捲する。やがてその経済思想は、幼い心にまで浸透していく。人間にとって貴重な「共感能力」は、麻痺、衰退、消滅へと向かい、倫理崩壊の重大な危機に晒されている。

 人類始原の自然状態以来、長きにわたって培われてきたこの人間の原初的「共感能力」の衰退こそが、地球的規模で巧妙かつ残虐に人間が人間を大量に傷つけ、殺めて憚らない、今日の人間精神の荒廃をもたらした元凶なのではないのか。
 そうであるならば、この恐るべき事態からの脱却の可能性はあるのか。あるとするならば、どうすればいいのか。それが21世紀の今日の私たちに課せられた難題なのである。

「菜園家族」の創出と資本の自然遡行的分散過程
 さて、先にも触れた原発苛酷事故に象徴される、今日の科学技術の「収拾不能の事態」に至るまでの資本の自己増殖運動、つまり資本の蓄積過程には、大きく2つの歴史的段階があった。
 1つは、前近代から近代への移行期における「資本の本源的蓄積過程」であり、もう1つは、それによって準備された原初的な資本の基盤の上に展開される、全面的な商品生産のもとでの本格的な「資本の蓄積・集中・集積過程」であり、その延長線上に現れた今日の巨大資本の生成過程である。

 この資本の自己増殖運動の全歴史の終末期の象徴とも言うべき、今日のこの科学技術の「収拾不能の事態」は、私たちにこれまでの「資本の蓄積・集中・集積過程」からの訣別と、それに代わるべき「資本の自然遡行的分散過程」の対置をいやが上にも迫ってくる。こうした時代を迎えるに至ったのは、成るべくして成った人類の歴史の必然と言わなければならない。

 ところで、21世紀生命系の未来社会論具現化の道である「菜園家族」社会構想は、現代賃金労働者(サラリーマン)と生産手段(自足限度の小農地、生産用具、家屋など)との再結合によって未来社会を展望するのであるが、めざすべき自然循環型共生社会(じねん社会としてのFP複合社会)への中間発展段階としての、週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリング(但し1≦α≦4)に基づくCFP複合社会※1 においては、1人の人間の労働時間から見れば、1週間のうち資本主義セクターCに投入される労働は、従来の5日から(5-α)日に減少する。
 つまりこのことは同時に、社会全体から見れば、純粋な意味での賃金労働者としての社会的労働力投入総量の減少をも意味している。

 したがって、このことを資本の側面から見るならば、それは剰余価値の資本への転化のメカニズム、つまり資本の自己増殖運動のメカニズムを漸次衰退へと向かわせ、やがて巨大資本は質的変化を遂げながら、縮小・分割・分散の道を辿っていく運命にあることを意味している。
 こうした資本の自己増殖の衰退傾向は、これまでのような巨大資本による科学技術の独占を自ずと困難にし、科学技術が資本の僕(しもべ)の地位から次第に解き放たれ、自由な発展の条件を獲得していく過程でもある。

 一方、「菜園家族」型ワークシェアリングによって、人々が「菜園」や「匠・商(しようしよう)※2 の自営基盤を自らのものにし、家族や地域に滞留する時間が飛躍的に増えることは、人々の知恵と力が家族小経営セクターFに集中して注がれ、その結果、人間の本源的活動の場とも言うべき地域にもともとあった、自然的・人的・文化的潜在力が最大限に生かされ、素朴ではあるが人間性豊かな地域づくりが可能になることを意味している。
 こうして、森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)の農山漁村部に新たに創出される「菜園家族」や「匠商家族」※3 、そして流域地域圏(エリア)の中核都市の「匠商家族」が担い手となって、自然循環型共生の「新たな技術体系」創出の時代を切り拓いていくことになる。

 各地の風土と長い歴史の中で育まれ、市場原理による浸蝕にもめげずに、それでも何とか生き延びてきた農林漁業の細やかな技術や知恵、民衆のものづくりの技や道具、それに土地土地の天然素材を巧みに生かした伝統工芸や民芸に象徴される、実用的機能美に溢れた精緻で素朴な伝統的技術体系は、自然科学との共振・共鳴に伴って、人類が到達する新たな知見から再評価されることにもなろう。
 同時に、「資本の自然遡行的分散過程」の進展に伴い地方に分割・分散されていく「高度な」科学技術との融合もはじまる。
 このことは、これまでには見られなかった、全く異質の自然循環型共生の「新たな技術体系」が地域に創出されていく可能性が、大きく開かれていくことを意味しているのである。つまり、「菜園家族」の台頭は、異次元の新たな科学技術体系の生成・進化に大きな道を拓くのである。

C、F、P各セクター間の相互作用の展開過程と異次元の科学技術体系の可能性
 CFP複合社会の展開過程におけるC、F、Pそれぞれのセクター間の相互作用に注目するならば、「菜園家族」や「匠商家族」が熾烈な市場競争に抗して自己の暮らしを守るために、生活と生産の基盤を日常普段に自らの手で築いていく結果、家族小経営セクターFは全体として次第に力をつけ、大勢を占めるに至る。これとは逆に、同時併行して、資本の自己増殖のメカニズムは衰退へと向かい、資本主義セクターCは相対的に力を弱め、縮小過程に入っていく。それに伴い、公共的セクターPは次第に強化されていく。

 家族小経営セクターF内の「菜園家族」と「匠商家族」の個々の構成員を見ると、週休(2+α)日制の「菜園家族」型ワークシェアリング(但し1≦α≦4)が制度的にも定着していく中で、週に(2+α)日間は自己のセクターF内で家族とともに働き生活し、残りの週(5-α)日間は資本主義セクターCまたは公共的セクターPの職場に勤務することになる。

 このように、1人の人間が日常的に2つの異なるセクターでの労働に携わることによって、人間の多面的で豊かな発達が日常的に保障されることになる。それはまた同時に、旧来の科学技術が、家族と地域という場において、大地に根ざした伝統的なものづくりの技術体系と融合し、質的変化を遂げていく条件を恒常的に獲得したことにもなるのだ。

 こうした新たな社会的条件のもとで、市場原理に完全なまでに統御され、歪められてきた従来の科学技術は新たな展開過程に入り、これまでとは全く異質な、自然循環型共生社会にふさわしい、自然の摂理、つまり、自然界の生成・進化の「適応・調整」の原理(「自己組織化」)に適った、異次元の「新たな科学技術体系」の創出がはじまるのである。これはまさに、C、F、P3つのセクター間の相互補完的相互作用の展開過程の中ではじめて保障され、可能になると言ってもいいであろう。

 こうして「菜園家族」や「匠商家族」は、産業革命以来剥奪されていったものづくりの力を自らの手に取り戻し、これまでには見られなかった新たな生活創造への意欲と活力を得る。そして、市場原理至上主義に抗する自己の生活防衛としての自らの地域協同組織体「なりわいとも」※4 (アソシエーション)を組織しつつ、やがて森と海を結ぶ流域地域圏(エリア)の中核都市を要(かなめ)に、自らの地域ネットワーク、つまり豊かで生き生きとした多重重層的な地域団粒構造をこの流域地域圏(エリア)全域に築きあげていくことになるであろう。
 それはつまり、ひとつの流域地域圏(エリア)全域が、労・農一体的な21世紀の新たな社会的生存形態「菜園家族」を基盤に生成される、いわば有機的で高次のアソシエーションとして熟成されていく過程でもある。

 「菜園家族」と「匠商家族」を基盤に成立するCFP複合社会、さらに抗市場免疫の自律的世界、つまり自然循環型共生社会(じねん社会としてのFP複合社会)では、四季折々の移ろいに身をゆだね営まれる人間の暮らしと、その母胎とも言うべき自然が根幹を成している。こうした中で人々は、自然と人間との物質代謝の循環に直接関与していることから、この循環のためには、いのちの源である自然そのものの永続性が何よりも大切であることを、日常的に身をもって実感し生きていく。

 したがって、この循環を持続させるためには、最低限必要な生活用具や生産用具の損耗部分を補填しさえすれば、基本的には事足りると心底から納得できるのである。自然との物質代謝の循環を破壊してまで拡大生産をしなければならない社会的必然性は、本質的にそこにはない。
 浪費が美徳でなければ成り立たない市場原理至上主義「拡大経済」の社会に対して、こうした社会では、モノを大切に長く使うことや節約が個人にとっても、家族にとっても理に適っているのであって、やがてそれは社会の倫理として定着していく。
 近世江戸中期に円熟を迎え、高度経済成長以前のついこの間まで息づいていた、かつての伝統的な自然循環型の暮らしの社会においては、節約やモノを大切に使うことが美徳であったことを想い起こせば、それは十分に頷けるはずである。

異次元の新たな科学技術体系の生成・進化と未来社会 ―自然循環型共生社会
 早くも1970年代初頭に、現代文明の物質至上主義と科学技術への過大なまでの信仰を痛撃し、巨大化の道に警鐘を鳴らしたE・F・シューマッハー(1911~1977)が世に問うた名著『スモール・イズ・ビューティフル』。今、私たちの目の前に再び甦ってくる。その先見的知性にあらためて注目したい。

 3・11フクシマによってパンドラの箱の蓋が開けられ、「収拾不能の事態」に陥った今、現代科学技術を手放しで礼賛していればそれで済む時代は、もうとうに過ぎてしまった。精密化・複雑化・巨大化への自己運動を続ける現代科学技術。得体の知れない妖怪としか言いようのないこの巨体は、大自然界の摂理に背き、ついには自己制御不能に陥り、同行者であり主(ぬし)でもある資本に、人類を丸ごと生け贄として捧げるとでもいうのであろうか。
 ここに至った原因は一体何だったのか。そしてそれを克服していくためにどうすればいいのか。3・11フクシマは、これまでの科学技術のあり方と経済社会のあり方の両者を統一的に、しかも根源的に問い直すよう迫っている。

 それに応えるためには、先にも述べたように、18世紀イギリス産業革命以来、延々と続けられてきた厄介極まりないこの資本の自己増殖運動の過程に抗して、いよいよ「資本の自然遡行的分散過程」を対置する以外に道は残されていないのではないか。
 たとえそれが30年、50年、80年先の遠い道のりであっても、21世紀の全時代を貫く長期展望のもとに、その基本方向をしっかりと定めておくこと。こうすることによってはじめて、自然界の摂理に適った、21世紀にふさわしい、自然循環型共生の新たな次元での科学技術体系の創出の可能性が見えてくるのではないだろうか。

 そして、この可能性を確実に保障する現実社会における局面は、紛れもなく「菜園家族」を基調とするCFP複合社会のC、F、P3つのセクター間の相互補完的相互作用の展開過程の中にある。
 特にこの展開過程において必然的に進行する、21世紀の新しい人間の社会的生存形態としての「菜園家族」の創出それ自体が、剰余価値の資本への転化のメカニズムそのものを狂わせ、「資本の蓄積・集中・集積過程」を抑制し、資本主義を根底から揺るがすものになっていること。つまり、社会の基礎単位である「家族」そのものを労・農一体的な新たな家族形態、すなわち「菜園家族」へと一つひとつ時間をかけて改造することが、資本の自己増殖のメカニズムを社会の深層から次第に衰退へと向かわせ、その結果として、「資本の自然遡行的分散過程」を社会の土台からゆっくりと着実に促す、決定的に重要な契機になっていることに刮目しておきたい。

 それはとりもなおさず、18世紀イギリス産業革命を起点に成立した資本主義二百数十年におよぶ生成・進化の歴史過程において、おそらくははじめて、現実社会のさまざまな分野における広範な民衆一人ひとりの努力からはじまる、一見何の変哲もないこの「菜園家族」創出という日常普段の地道な人間的営為が、結果的にではあるが、市場原理に抗する免疫を家族自らの内部につくり出し、資本主義そのものの衰退と次代の自然循環型共生社会(じねん社会としてのFP複合社会)への胎動を古い社会(資本主義)の深層から確実に準備し、促進していくことになることに気づかなければならない。※5
 そこに、近代を根底から覆し、歴史を大きく塗り替えていくその重大な世界史的意義を見出すことができるのである。

 それは同時に、人類始原の自然状態以来、長い時代を経てヒトが培ってきた原初的「共感能力」、それを基礎に豊かに発達してきた、人間に特有の他者を思い遣る大切な感性の復活を促すものであり、この自然循環型共生の未来社会の内実をいっそう豊かなものにしていく重要なプロセスでもあるのだ。

人間の「共感能力」の復権と21世紀の新たな民衆連帯
 こうして、精密化・複雑化・巨大化を遂げ、資本の自己増殖運動に拍車をかけ、ついに母なる自然を破壊し、人類始原以来、培われてきた人間性の本質を成す、他の哺乳動物や霊長類にも見られない、ヒト特有の原初的「共感能力」の発達を妨げ、人間の精神をも狂わせ、人間社会を破局へと追い込んできだ現代科学技術に代わって、これまでとは全く別次元の異質な自然循環型共生の新たな科学技術体系が確立されていくであろう。
 それは、今から45年ほど前にシューマッハーが唱えた「中間技術」の概念をはるかに超え、3・11後、気候変動、新型コロナウイルス・パンデミック、そしてウクライナ戦争という世界的複合危機の新たな時代状況の中で鍛錬され、いっそう豊かなものになっていくにちがいない。

 巨大化し、ついに自然、そして人間社会との対立物に転化した現代科学技術に代わって、自然循環型共生にふさわしい、人間の身の丈にあった、これまでには想像だにできなかった、全く異次元の「潤いのある小さな科学技術」の新たな体系が生成・進化していくにつれて、国内総生産(GDP)を構成する価値の総体からは、人間にとって不必要なもの、無駄なもの、ましてや人間に危害や害悪を及ぼすもの、自然に対して不可逆的な破壊作用を及ぼすもの、そして人間を殺め、人類を破滅のどん底に落とし入れる膨大な兵器体系は、次第に取り除かれていくであろう。
 その代わりに、自然循環型共生の「潤いのある小さな科学技術体系」によってつくり出される新たな価値によって置き換えられていくにちがいない。

 このプロセスは緩慢で実に長期にわたることが予想されるが、自然循環型共生のこの「潤いのある小さな科学技術」がやがて大勢を制するにしたがって、経済成長はもはや意義を失い、この新たな経済社会システムの持続可能性こそが最大の関心事になっていくであろう。
 その時、政策立案や経済運営にはなくてはならないものとして、これまで後生大事にされてきた旧来の経済成長率の数値目標自体が、もはや全く意味を失い、それに代わって、この新たな経済社会システムの持続可能性を示し得る客観的指標の考案が、社会的にも要請されてくるにちがいない。

 イギリス産業革命以来、長きにわたって一貫して資本の自己増殖運動に寄り添い、精密化・複雑化・巨大化を遂げ、ついにフクシマ原発の苛酷事故を引き起こし、母なる自然を破壊し、人間社会をも狂わせ、さらには核兵器による人類破滅の脅威と不安に人々を追い遣ってきた現代科学技術は、やがて自然の摂理、つまり、自然界の生成・進化のあらゆる現象を貫く「適応・調整」の原理(「自己組織化」)に即して、人間と自然との再融合の可能性を大きく切り拓く、まったく異次元の新たな科学技術体系に席を譲っていくことになろう。
 それはまた同時に、資本の自然遡行的分散過程であり、風土に根ざした自然循環型共生社会(じねん社会)創出の豊かなプロセスでもある。
 その時、科学技術は、資本の自己増殖運動に寄り添い従属する下僕としてではなく、そこから解き放たれ、自由な世界へと羽ばたいていくことになるであろう。

 これまで科学技術が歩んできた道は、あまりにも歪められた実に惨めな歴史であった。科学技術が本来の真価を発揮できる、そして人間の「共感能力」が全面的に開花できる本当の歴史は、3・11東日本大震災・フクシマ原発苛酷事故、それに続く新型コロナウイルス・パンデミック、深刻化する地球温暖化による気候変動、さらにはウクライナ戦争という世界的複合危機を境にこれからはじまるのである。

 とりわけ、人類始原以来、他の動物には見られない特異な発達を遂げてきた人間の「共感能力」は、資本の自己増殖運動に潜む、人間欲望の執拗で際限なき拡大に連動するかのように麻痺し、衰退、消滅へと向かっていく。
 超大国、諸大国の権力者たちによる醜い覇権抗争の今日のこの世界的危機を転機に、反転へと向かい、特に近代資本主義以降、豊かな発達を阻まれ、衰退しきった人間本来の「共感能力」を復活、普遍的愛へと昇華させ、人類究極の理念「自由・平等・友愛」のもとに、非戦・平和の精神性豊かな「菜園家族」基調のじねん社会(自然循環型共生社会)をめざすことが急務となっている。

 特に戦後の高度経済成長以降、国民は形骸化した「選挙」の枠組みに閉じ込められ、「お任せ民主主義」という他人任せの意識にすっかり幽閉されてしまったようだ。
 その結果、わが国における主体的な地域づくりや労働運動は、周知のように壊滅的状態にある。もうそろそろ、他人任せの意識からきっぱり訣別し、変革者としての主体性と連帯を回復すべき時に来ているのではないか。
 大地に根ざした「地域」と「労働」の民衆運動の新たな時代は、今、大きく開かれようとしている。

※1 シリーズ“21世紀の未来社会”(全13章)の第六章「あらためて考える21世紀の未来社会」https://www.satoken-nomad.com/archives/1946の1節「21世紀の『菜園家族』社会構想 ―『地域生態学』的理念とその方法を基軸に―」を参照のこと。

※2および3 同シリーズ“21世紀の未来社会”の第七章「『匠商家族』と地方中核都市の形成 ―都市と農村の共進化―」https://www.satoken-nomad.com/archives/1957を参照のこと。

※4 同シリーズ“21世紀の未来社会”の第六章「あらためて考える21世紀の未来社会」https://www.satoken-nomad.com/archives/1946の2節「草の根民主主義熟成の土壌、地域協同組織体『なりわいとも』の生成・展開」、および第七章「『匠商家族』と地方中核都市の形成」https://www.satoken-nomad.com/archives/1957を参照のこと。

※5 現実社会における具体的、政策的提案として、同シリーズ“21世紀の未来社会”の第八章「世界的複合危機の時代を生きる ―避けては通れない社会システムの根源的大転換―」https://www.satoken-nomad.com/archives/1965で、CSSKメカニズムとして提起している。

2023年3月25日
里山研究庵Nomad
小貫雅男・伊藤恵子

「要諦再読 その5・その6」の引用・参考文献
現代技術史研究会 編『徹底検証 21世紀の全技術』藤原書店、2010年
池内了『科学と人間の不協和音』角川書店、2012年
山田慶兒『制作する行為としての技術』朝日新聞社、1991年
E・F・シューマッハ 著、小島慶三・酒井懋 訳『スモール・イズ・ビューティフル ―人間中心の経済学―』講談社学術文庫、1986年
サティシュ・クマール 著、尾関修・尾関沢人 訳『君あり、故に我あり ―依存の宣言―』講談社学術文庫、2005年
石井一也『身の丈の経済論 ―ガンディー思想とその系譜』法政大学出版局、2014年
大友詔雄「原子力技術の根本問題と自然エネルギーの可能性」(上)(下)『経済』2012年7月号・8月号、新日本出版社
尾関周二「脱原発・持続可能社会と文明の転換 ―<農>を基礎にしたエコロジー文明へ」『季論21』2012年冬号、本の泉社

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シリーズ“21世紀の未来社会 ―世界的複合危機、混迷の時代を生きる―(全13章)の≪目次一覧≫は、下記リンクのページをご覧ください。
https://www.satoken-nomad.com/archives/1823

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